2013年01月25日

鏡女

  鏡女

 転入した学校で噂になっていたのは《鏡女(かがみおんな)》という意味不明の存在だった。
 何それ! というボクの問いにクラスメイトのみんなは嬉々(きき)として答えてくれた。
 最近この町で相次ぐ失踪事件が起こっているらしい。失踪者は七歳から六十五歳までと幅広く、男女問わず、共通点など無し。今までに十三人が行方をくらましたという。警察も翻弄(ほんろう)されている失踪事件。謎の事件の陰に見え隠れする《鏡女》の存在。ボクは非常に興味をそそられた。だからもっと詳しい情報を得ようと、クラスメイトのひとりひとりに訊(き)いてまわった。
 知らない、知らんな、知らねえよ、わからないわ、わかんない、聞いたことはあるけど、何それ、見たことあるよ――だった。最後に居た。知ってるヤツ。ヤツじゃない、女の子。
 この子の名前になんて興味はないし知りたいとも思わないのでとりあえずウタコと名付けておく。ウタコは眼鏡の上で奇麗に切りそろえられている前髪を少しだけ揺らしながら、誰にも聞こえないように小さな声で言った。
「先月、お母さんとデパートへ買い物に行ったとき、道の向こうにチヅルがいたの」
 固有名詞を使われても誰だかわからないから避けてほしいのだけど、ボクは黙って聞いていた。
「チヅルに声をかけようと思ったんだけど、そのとき、ある人物が視界の片隅に入ってきて、それで、言葉を飲み込んだの」
「その人物というのが、もしかして、鏡女だったの?」
「今にして思うと、そうだったのかも。だってね、鏡女は、つねに鏡を持っていて、物を反射させてから、対象物を見るの。あの日もそうだった。丸くて大きい手鏡を顔の位置まで上げていて、チヅルに背を向けて、鏡を通して彼女を見ているようだったの。夜遅かったから人がまばらで、ひどく目立ったわ」
「それで」誰だかわからないけど「チヅルさんは?」と訊いた。
「知らないの? 彼女は十三人目の失踪者よ」

 家に帰るとすぐに二階へ上がって制服を脱ぎ、下着はそのままにノートパソコンを開き《鏡女》の情報を探す。すぐに見つかる、というか、多い。いっぱい出てきて、信憑性のない情報もあって、ボクは選別を始めた。神の使いやら悪魔の使者やら整形手術失敗でかわいそうやら第二の口裂け女やらただの狂人やら失踪とは実は無関係、だった。ただ、一貫して語られているのは、鏡女は、鏡を通してしか、物を見ない、ということだった。目撃情報も次々に出てきた。その数、三十万件超え! 失踪者は十三人しかいないのにそれだけの目撃者がいたのか! と鵜呑(うの)みにするわけにはいかなくて真実と虚実を見極める。その中には推理小説の犯人当てのように、ネット上に地図を載せて次の犯行場所を予測するものまでいた。だけどどれもこれもこじつけのようにしか感じられず、ボクはだんだんげんなりしてきた。そんなとき、ふたつ下の妹のサヨリが部屋に入ってきた。
 腰までの黒髪を揺らしながら言う。「ねえ、鏡女って知ってる?」
「ちょうど調べていたところだよ」
「なぁんだ、知ってるんだ、つまんないの」
 小学生の間でも鏡女のことは噂になっているようだ。前に住んでいた町ではまったく耳にしなかった《鏡女》という言葉。パラレルワールドに飛び込んだようで、少しだけ恐怖心が湧いてきた。それでも、《逃げるわけにはいかなかった》。
「で?」サヨリは大きな眼を輝かせて、「何か見つかった?」と尋ねた。
「ネットよりも直接、誰かに聞いたほうがいいかもね」
「でもお兄ちゃん、なんでそんなに鏡女に執着しているの?」
「お前のためだよ」ウソだった。

 テレビをつけない静かな食卓。蛍光灯の心もとない明かりが逆に食卓を暗くする。いつもの食卓。三つの料理。ひとつは手つかず。
「ねえ」と母親が口を開いた。「お友達は出来た?」
 この数カ月、父親が出て行ったりして母親はいっきに老けた。
「初日だよ。まだに決まってるじゃないか」
「そうね、そうよね、あまりに心配しすぎちゃってそのことばかり考えていたの」
 母親の白い髪の毛がしだれ柳(やなぎ)のように垂れている。黒い髪の毛も執念深く残っているが、それも風前のともしび。肌も、眼の色も、声も、それから顔も、すべてが百八十度かわってしまった。この人は、本当にボクの母親なのだろうか。
「あせらないでゆっくり時間をかけてクラスに溶け込んで行くのよ。そうすれば、杭(くい)のように打たれないから」
 いつもの食卓。いつものネガティブ。ローテーションが早く回ってくる料理。三人分。ひとつは手つかず。
 チキンから揚げも白いごはんもウィンナーも春巻きもほとんど噛まずに飲み込んでごちそうさま。食器を流し台に持って行って洗わずに自分の部屋へ。ノートパソコンの電源を立ち上げて鏡女のページを開く。だけど有力な情報は得られそうにないので寝ることにした。電気を消した直後にドアが開けられる。
「お兄ちゃん、《鏡女》の新しい情報が入ったら、すぐに教えてね。ワタシも隠さずに話すから」「わかったから早く寝ろ。それと、ノックくらいしろ」「は~い」
 ボクはこの日も、泣いた。

 たいくつな授業が終わり、それじゃあ鏡女の捜索にでも乗り出すか、と決断したとき、ウタコがボクの前に立ちふさがった。邪魔するな、と蹴っ飛ばそうかどうかを選択中に彼女が言った。
「私も連れて行ってくれないかな」
 正直、邪魔だった。冗談じゃない、と蹴っ飛ばそうと思ったけど、行動に移る前に彼女は言った。
「もしかしたら、鏡女が次に現れる場所がわかるかも」
 いっしょに来い!

 ウタコの名前はウタコではなかった。当たり前だけど。なんとかかんとかと言ったけど、まったく興味がなかったので二秒後に忘れたので、けっきょくウタコのままだった。
 ウタコが丁寧に切りそろえられた前髪を気にしながら言った。
「ふた駅だからすぐよ」
 遠くても問題ない、そんなことでボクの探究心は萎(な)えない、と気合充分でいたけど電車はすぐに来てくれた。乗り込む。
「ネットでね、鏡女の次の犯行場所を予測する人がいたの」と腰をおろしてそうそうウタコが切り出す。
 おいおいおい、ちょっと待って。そんなことはボクも昨夜調べたよ。まさか、ウタコはそんなガセネタを信じているの? そんなガセネタのためにボクと同行したの? ウソでしょ。独りじゃ怖いからボクを利用した? そうかもしれない。だってウタコは頭が身体よりも大きくてしかもごぼうのような体形をしているのだから。力がないことは誰にでもわかる。鏡女に襲われてもボクがいれば安心? いやいや、ボクはそれほど力がある方じゃないから、守ってやれる自信はありません。でも、とボクは思う。もしも鏡女と対峙しても、ウタコを犠牲にすればいい。盾としてなら役にたつ。そうだ、そうしよう。だからボクはウタコと行動を共にする。
「もちろん、嘘っぽい情報も蔓延(まんえん)しているわ。だけどね、私はそれらを眼にしているうちにあることを発見したの」何を?「有力な情報」何それ? というボクの問いに対し、ウタコは笑顔で答えた。
「奇妙なパターン」

 はっきり言って、ウタコは天才だと思った。ウタコの本当の名前を知りたいと思ったけど、今さら聞けるはずもなく、けっきょくウタコのままだった。まあいいや。口を開けて水揚げされた魚のような顔をさらしているボクに向かって、天才ウタコは説明する。
「えっとね、実は、失踪者が出る場所っていうのには、ある一定のパターンがあるの。それはね、FBIとかでも使われている混乱方式に似た法則」なんですかそれ?
「それではクイズです」おいおいおい、ちょっと待って、クイズ? 何それ。えっと、遊びじゃないんですけど。まあいいや。というか、付き合うしかない。
「第一の犯行現場と失踪者、加賀松(かがまつ)町、マリアという少女。
 第二の現場、真帆神(まほがみ)町、エツコという女性。
 第三の現場、加賀町、ケルトミという中年男性。
 第四の現場、率眼(りつめ)村、マサルという少年。
 第五の現場、婦等間(ふらま)町、イケミという老女。
 第六の現場、秋刀魚(さんま)村、ノエルという女の子。
 ここまで言うともう気づいたんじゃないかしら?」
 いいえまったくわかりません。
「もう。じゃあ、とっておきのヒント。
 第十の現場、加我門(かがもん)町、ピカソという少年、と《鏡》」
 ピカソ? 親はものすごい名前を付けたもんだ。
「絵画……ですか?」
「正解!」ウタコは満面の笑みをその顔に浮かべて、「そうするとこの辺で次に犯行が行われそうな場所は――」
「ちょっと待って、絵画と言ったのはピカソから連想したことであって謎はなんにも解けてないんだ。ゴメン。降参。教えてちょうだい」
 ウタコは口を丸く開けて、しばらくして口を閉じて眼を細めてボクを見つめた。明らかにがっかりしている。だけどボクは辛抱強く待つ。ウタコもまた降参したらしく、バッグから地図を取り出した。ボクの勝ち。
「いい? 犯人は鏡女なのよ、だから決して《鏡》に関する情報をないがしろには出来ない。最初は、カガマツチョウのマリア。鏡というモチーフを題材にした絵を調べてみると、リア・スタインの鏡に映った子猫が連想できる。つまり、(カガ)マツチョウ・マ(リア)。(かが)みに映った子猫・(リア)・スタイン。ここに気づけばもう謎は解けているわ。
 第二が(マホ)ガミチョウ・(エツ)コ――(まほ)うの鏡・マウリッツ・(エッ)シャー。
 第三が(カガ)チョウ・(ケル)トミ――(かが)みの向こうの眺め・アルフレッド・ゴッ(ケル)。
 第四が(リツ)メムラ・マ(サル)――(立)体鏡的絵画の中のダリとガラ・(サル)バドール・ダリ。
 第五が(フラ)マチョウ・(イケ)ミ――(フラ)ンスの鏡映・マ(イケ)ル・ロンゴ。
 第六が(サン)マムラ・ノ(エル)――(三)重自画像・ノーマン・ロックウ(ェル)。
 大ヒントのカガモンチョウ・ピカソ――かがみの前の若い女・パブロ・ピカソはもうわかるわね」
 ここまで言ってウタコは地図の上に指を走らせた。
「同じ地域での犯行がないということは、可能性がある場所はもう二カ所しかないの。
 千羽(せんば)村か不音(ふおん)村。
 洗面台の鏡――ピエール・ボナールか、フォリー・ベルジュール劇場のバー――エドゥアール・マネ」
 ボクは拍手を送った。

 ボクたちが降り立った場所は千羽村だった。理由はただ単にこっちのほうが近いから。
ウタコの推理は確かにすごいけど、ある欠点もあった。それは人物の特定が出来ないということだ。例えばピエール・ボナールからだけでもいろいろな名前が浮かんでくる。役場に行っても住民の名前を教えてくれるはずもなく、電話帳を開くしかない。それでも家族全員の名前は載っていない。ただしひとつだけ希望があった。それは、千羽村は一一四世帯の小さな部落なのだ。人口なんて三百人にも満たない。小さなスーパーとコンビニが一軒ずつ、図書館と公民館、広い公園と山しかない。つまり、迷うことはほとんどない、ということ。時刻は午後六時半。徐々に太陽の力が弱まっている。それと同時に人の数も減っている。鏡女はスーパーやコンビニには現れないだろう。人が多すぎる。公民館はもう誰もいない。図書館は数人が読書にふけっている。そうすると張る場所は限られてくる。図書館か公園か山。山といってもそれほど深い山ではない。二時間やそこらで隣の村に出られるそうだ。
 どこに行く? とウタコに質問すると、山、と答えたので山に行くことにした。公園は公道に面しているので山のほうが確立は高いとボクも推測したからだ。
 山の中腹(ちゅうふく)にはカップルの憩(いこ)いの場的な少しだけ開けた場所があって案の定カップルがいちゃついていた。大学生くらいだろうか、広場の四隅に設置されているベンチのひとつに腰かけ、抱き合っている。ボクとウタコは音を立てないように公衆トイレの陰(かげ)に隠れた。もちろんボクの脳裏には鏡女のことなんか残っていなかった。これからこのカップルは何をするのだろう、だった。もしかして二人の行動を見ているうちにウタコが変な気分になってきて眼鏡を片手ではずし真っすぐな前髪を振って眼を細めてつややかな口を半開きにしてボクを見つめるかもしれない、と考えていた。妄想タイムに没頭しているとウタコがボクの腕を強く握ってきた。来た~この展開。ウタコは別にかわいくもなんともないんだけど一応女としては見れるわけであってスタイルも悪くないからボクの理性は赤信号。ウタコの唇がモニョモニョと動く。
「鏡女よ」
 消え入りそうなほど小さな声で言った。
 現実に戻るボクの思考。冷静さを取り戻したボクもまた声を殺して答えた。
「どこ?」
 ウタコは、ボクたちが隠れている場所の反対側を指差した。顔をそっと前に出して首をひねる。

 居た。

 ウタコの推理は正しかった。
 黒のデニムのパンツに赤のカーディガン。高いヒールのサンダル。中肉中背、肩までの黒髪。特徴のない体格。おそらく道ですれ違っても三秒後には忘れてしまうだろう。そんな女性。そして手には丸くて大きな手鏡。漆(うるし)だろうか、黒光りしている。
 鏡女は手鏡を右手で顔の位置まで上げて、右側斜め前方に持ってきている。そのため耳は見えるのだけど眼の部分は隠れている。そして、カップルに背を向けている。
 明らかに鏡を通してカップルを見ていた。
 カップルはお互いの世界に入り込んでいて彼女の存在に気づいていない。お互いしか見ていない。盲目のバカップル。
 鏡女が動いた。
 後ろ向きのまま歩いた。カクカクと、ひと昔前の巻き戻し映像のように。
 カップルとの距離が、短くなる。
 鏡女の顔は手鏡に完全に隠れた。
 鏡女は前進(後退?)を続ける。
 カップルとの距離、数メートル。
 かかとのヒールが地面に刺さる。
 ボクとウタコの呼吸が合わさる。
 バカップルは、まだ気づかない。
 叫んで、教えようかどうか迷う。
 ウタコの爪が、右腕に食い込む。
 そして、鏡女が歩を止めた……。
 ようやくカップルの女が鏡女の存在に気づき顔を上げる。どうしたんだよ、とまぬけな顔を、男も上げる。
 次の瞬間、ボクはカップルの男と同じようにまぬけな顔をしていたと思う。それでも、叫ばなかっただけエライと自分で自分を褒(ほ)める。
 鏡女は、あいているほうの腕を背後に伸ばし、カップルの男の頭をむんずとつかむと、自分より重そうな男を軽々と持ち上げて、山の奥へと走り去って行った。
 茫然(ぼうぜん)と、事の成り行きを見守り、しばらく続いた沈黙を破ったのはカップルの女だった。悲痛な叫び声を上げながら鏡女が消えたほうへ駆けて行った。やがて訪れる静寂。
「居たね……」とウタコがボソボソと言う。誰も居ないのにまだ小声だった。
「うん……居た……」とボクも小さな声で答える。

 ボクたちは無言のまま山を降りた。
 駅まで歩こうとしたそのとき、ウタコがボクの手を握ってきた。その手は小刻みに震えていて、彼女の怯えが伝わってきた。
 電車の中では一言も会話がなく、そして、ウタコはずっと手を握っていた。ボクも無言のまま握り返した、現実に、お互いをつなぎとめておくかのように。
 電車を降りると、それじゃまた明日学校でね、と言い残してウタコは歩き出した。
 うんまた明日、とウタコの背中に向かって答えると、彼女は振り返ってニコリとした。
 そのとき、ボクは見た。振り向いているウタコの背後、数メートル先に、鏡女を。
 忠告も、警告も、何も出てこない。
 ただただ、鏡女を指さすしか出来なかった。
 不穏な空気を読み取り、ウタコの笑顔が恐怖に歪む。蒼白になりながら彼女は背後を振り返る。
「逃げろ!」
 ボクの言葉と同時だった。すべてが同時に起こった。
 ボクの元へ駆け出すウタコ。
 こちらへ向かってくる鏡女。
 鏡女は後ろ向きなのに異様な速さだった。瞬(またた)く間に近づいてくる。
 ウタコを待ち、いっしょに逃げるか。それとも彼女を置いて自分だけでも逃げるか。選択に迫られた。早く決めなければ手遅れになる。
 ボクが選んだ選択は、
「急げ、追いつかれるぞ!」
 ウタコの手を取り引っ張る。
 そのときボクは鏡女の顔を見た。鏡に映るその顔は、眼が顔の三分の一を埋(う)め、三分の二を大きな口が占めていた。あなたの眼はどうしてそんなに大きいの? あなたの口はどうしてそんなに大きいの? 何故、後ろ向きでそんなに速く走れるの? 失踪した人たちはいったいどこに連れて行かれてるの? 何が目的なの? あなたの正体はなんなの?
「どうしたの? 逃げましょう」
 いつの間にか立場が逆転していた。気づくとウタコがボクの手を引っ張っている。我を取り戻し、彼女を追い越して男らしいところを復活させる。
 コッゴン、コッゴンとハイヒールのかかと部分が地面を打つ音がすぐ背後に迫る。
 怖い。
 やっぱりウタコを待たずに先に逃げればよかった。
 鏡女は速い。速すぎる。
 逃げられない。
 コッゴンコッゴンが大きくなる。
「無理よ、もう、すぐそこまで来てる」
「あきらめるな、とにかく急ぐんだ」
「無理よ無理よ」
「大丈夫だ、ボクがついてる」
「無理なの。だって私、鏡女につかまってるから……」
 視線を下ろし彼女の左手を見ると、骨ばった白い手がくっついていた。
 その瞬間、ものすごい力でウタコを奪われた。
 ボクはバランスを崩して転倒し、両手をついて顔を上げる。
 ウタコの左腕が変な方向に曲がっている。驚きと恐怖と未練(みれん)を宿した眼がボクを見つめている。ウタコは必死に右手と両足で抵抗するが、ズザザザザと、道の彼方へと引きずられて行った。

 どうやって帰ったのか覚えていない。
 あちこちケガをしているので何度か転んだのかもしれない。でもそのような記憶はない。
 おかえり、という母親を無視して部屋の中に逃げ込む。
 そのままベッドに飛び乗り布団を頭からかぶる。
 ボクの帰宅に気づいた妹が、どうしたの? と心配しながら部屋に入ってきた。
 だけどそれも無視。いろいろと話しかけてくるが、ぜんぶ無視。
 やがて小言を言いながら妹は出て行った。
 今だけは、妹の姿を見ることが出来なかったからだ。

 けっきょく一睡もできず学校の時間になり朝ごはんも食べずに家を出る。何があったのか問い詰めようとする母親を無視。通学途中は一度も立ち止まらず、到着するまで全力疾走。教室に入るとすぐにクラスメイト数人を捕まえる。知りたいことを訊き出すとすぐに教室を出て帰宅。部屋に飛び込みパソコンを開く。
 立ち上がりの時間がやけに長く感じる。
 急いでくれ。
 やっとネットにつなぐことが出来た。すぐに目的のページへ。
 あった。

 ビーテル・エーリンハ作――
 画家と読みものをする女性、掃除をする召使いのいる室内。

 ウタコが消えた場所――
 真我可村。マ(ガカ)ムラ――
 そしてウタコの本名――
 (リン)コ――

 もうひとつ調べなくてはならないことがある。
 それは同じサイト上にあったのですぐに見つかった。
 恐怖のため身体がいつかのウタコ――リンコと同じように震えだす。
 どんなに怖くても、恐ろしくても、確実に見なくてはならない。
 それが、危険から避けることにつながるのだから……。

 鏡のヴィーナス――ディエゴ・ベラスケス作。
 三化川(さんかがわ)町、サスケ。
 ボクが今居る場所でボクの名前。

 妹のサヨリがノックもせず部屋に入ってきた。
「もしかして、鏡女の正体でもわかったの?」
「そうじゃないけど、事件の起こる法則は、わかった。お前は何か新しい情報でも手に入れたのか?」
「解決につながる情報ではないんだけど、ふたつだけ」妹が人差し指を立てる。「ひとつは、鏡女はつねに笑っているんだけど、本当は寂しいんじゃないか。孤独を払拭(ふっしょく)するために、人をさらって身近に置いているんじゃないかって。もうひとつは、鏡女に狙われた人は、ぜったいに、逃げられないんだって」

 この日も眼が冴(さ)えて眠ることが出来なかった。
 熱いのか寒いのかわからないし布団がやけに重くて何度も蹴っ飛ばす。何度も寝返りを打つ。右へ左へ。窓側を向いた。何回目だろうか。雲ひとつない夜空には星も月もなにもなかった。宇宙がそのまま見えるようだった。無音は、ボクを孤独にさせた。自分が立てる布を擦(す)る音、呼吸、心音だけが耳に入ってくる。だけどそれは無音と同義(どうぎ)だった。ボクだけを存在させる音でしかなかった。孤独は絶望を生み、接触を渇望(かつぼう)させる。無性に誰かと会いたくなり、時刻を確認すると午前一時。もう誰も起きてやしない。その諦(あきら)めがさらにボクを闇の中に突き落とす。
 叫ぼうかと思った。泣こうかと思った。
 そのときふと、サヨリの顔が脳裏をよぎった。その顔を振り払うようにまた身体の向きを変える。同じ闇が広がっているけど、窓の外のような開放感がない。ボクを体内に引きずり込もうと、闇が迫ってくるようだった。呼吸が困難になってきたのでまたまた身体を回転させた。
 窓が開いている。
 人型のシルエットが、浮かんでいる。
 シルエットは窓枠を乗り越えている。
 右手に、何かを握っている。
 忘れるはずのないその、形。
 叫ぼうとした瞬間、口を力強い手でふさがれた。そのまま引っ張られ窓から落ちる。
 カヅン! ハイヒールがコンクリートに突き立つ。
 ボクを助けるつもりはないようだ。すごい勢いで地面が迫る。二階から無防備のままコンクリートの地面に激突――かと思いきや、鏡女はすぐに走り出した。そのためボクの身体は大きく弧を描き、落下の衝撃は減った。転落死はまぬがれたものの、永遠ともいえる苦しみが襲ってきた。ボクは部屋で横になっていた、つまり裸足(はだし)なのだ。カンナのような、ピーラーのような、鉛筆削りのような、凶器と化した路面。ガリガリと削られるボクの両足と両手。助けを呼びたくても口を押さえられているので無理。だけど、とボクは痛みに耐えながら思う。もしも助けを呼べる状況であったとしても、ボクは静かにしていただろう。
 鏡女の顔を見上げる。大きな眼と大きな口以外には特徴的なところはない。体型も普通。ただ後ろ向きで行動するだけ。他には? 赤いハイヒールなんてどこにでも売っている。何かあるはずだ。見つけろ! 見逃すな!
あった。
 抵抗しなかったボクはいきなり暴れた。鏡女はあきらかに油断していた。だから簡単に手がはずれた。ボクはすぐさま起き上がった。両手も両足も血にまみれている。だけど幸いなことに、恐怖が勝(まさ)っていて激痛は引いている。だから走れる。全力で走る。ここはどこだ? 町はずれの商店街だ。もちろん人ッ子ひとりいない。暗い路地を走る。鏡女が追ってきていることは音でわかる。だけど振り向いている余裕なんてない。ボクには行かなくてはならない場所がある。そこまではどれくらいだろう。かなりある。間違いなく途中で捕獲(ほかく)される。すぐ隣には公園。ボクは右折する。そのまま公衆トイレに駆け込み個室に入り施錠(せじょう)する。呼吸音が壁に反射して前後左右から響いてくる。やがてコッゴンコッゴン、コッコッコッコ………ドアの前で音が止まった。息を殺す。耳を澄ます。気配はない。居るのかと不安になってくる。それでもボクはまだ動かない。しばらくして恐る恐る見上げる。大丈夫、上から覗いてはいない。居ない。便座に全体重を預ける。弛緩(しかん)して、顔を下げたときに気づいた。扉の下に開いている隙間から、もう見なれた、手鏡が飛び出していたのだ。鏡に映る鏡女の眼。ビグッと痙攣(けいれん)し、叫んで助けを呼ぼうと思ったが、ボクは思い直して冷静さを取り戻した。
 鏡女に向って言う。
「あなたの目的はなんなのですか?」無言。「どうしてボクを連れて行こうとしたのですか?」無言。「あなたの名前はなんですか?」無言。「あなたの正体はなんなのですか?」無言。「もしかして、あなたは寂しいだけなのですか? だったら、友達になりましょう。それからあなたの悩みを訊いて、すべてを解決させましょう。それくらいなら、ボクにでも出来ると思いますから」無言。「画家だったのですか? それとも目指していた?」
 無言。
「ボクにも問題があるので、心配しないで、警戒しないで」
 手鏡が消えた。それから、コッコッコッコ……と音が遠ざかって行った。
 個室のドアを開ける。誰も居ない。ボクはトイレの外へ出る。無人の公園はしかし、小さな音を立てて子供たちを待っている。だけどそれはボクではない。むしろボクを排除(はいじょ)しようと威圧的だった。
「待って鏡女! まだ終わっちゃいない。実は、君に用があるんだ!」
 虚空(こくう)に向かって叫ぶ。
「お願いだ! 戻ってきてくれ!」
 そのときボクは鏡女がどこへも行かず、虎視(こし)淡々(たんたん)とボクのことを狙っていたことを知らなかった。鏡女はトイレの屋根に上(のぼ)っていて、ボクの背後に向かって跳躍したのだ。
 地面に崩れるボクと鏡女。ちょっと待って話を訊いて、というボクの哀願(あいがん)もむなしく、鏡女はボクの顔を殴りつける。鏡女は後ろに向かってこぶしを振るうのにしっかりと腰が乗っていて痛い。倒れたボクの上に覆(おお)いかぶさり、好きなように殴っている。やりたい放題(ほうだい)だ。ボクは懸命に腕を伸ばす。そして、彼女の左腕をつかんだ。
 そう、鏡女の弱点はつねに手鏡を持っているので片腕しか自由じゃないということ。
 だからボクは手鏡を奪うことに成功した。
 突然、腕をばたつかせる鏡女。それはまるで、眼が見えないかのような動きだった。
 ボクはゆっくり腰を上げる、けれど、鏡女はおかまいなしに地面をかきむしり始める。それはまるで、獣が爪を研(と)ぐような無気味な動きだった。
 手にした手鏡を見る。普通の鏡で青あざを作ったボクの顔が普通に映っている。どこにでもありそうな手鏡。だけど、とボクは決意を込めて、走りだした。
 鏡女はまだ地面をまさぐっている。ボクが駆けだしたことに気づいたのか、

 チマアアアアアァァァァン

 と奇妙な声で泣いた。いや、鳴いた、と表現したほうが正しいのかも知れない。
 遠ざかる鏡女の鳴き声。ボクは手鏡を決して落とさないように、しっかりと握りしめて目的地を目指した。

 ある森で、ボクは手鏡を木々の隙間に隠して、Uターンして帰路についた。

 朝方に家へ到着し、とりあえず寝る。
 学校の時間に母親が起こしに来たのだろうが気づかずに、眼が覚めたときはもう夕方だった。下へ降りると母親が夕食の準備をしていた。三人分のカレーライスだった。くたびれたような母親が、さあ食べて、と言う。だけどボクはスプーンを置いた。

 部屋へ入るとすぐに妹のサヨリがやって来た。
「ねえ、お兄ちゃん、鏡女の新しい情報を手に入れた?」「情報と言うか、会ったよ」「え? 本当! ねえねえどんなだった?」「どんなかと聞かれたら普通だったと答えるしかない」「なにそれ、はっきりしない答えね」「仕方ないだろ、本当に特徴(とくちょう)なんてなかったんだから」「まあいいわ。でもこれでひとつだけ証明されたね、鏡女に狙われたらかならず連れていかれるという噂は間違っていたって」「…………」「お兄ちゃんが初めてよ。でもなんで鏡女にそんなに執着するわけ? 今日こそはその理由を教えてよ。今のお兄ちゃん、ちょっと怖いくらいよ」

「怖いのはこっちだ! 山へふたりで遊びに行ったとき、足をすべらせて岩に頭を打ち付けて脳髄(のうずい)をまき散らして川に流されて、お前は……お前はあのとき死んだんだ! ボクは一部始終を見ていた。確実に死を迎えていた。なのになんでボクの前に現れるんだよ! 山に誘ったのはボクだよ。ちょっといじめたのもボクだ。でも、足をすべらせたのはお前のミスじゃないか。ここに居ちゃいけない。お前は山で鏡女にさらわれたんだ。そう、山には鏡女の手鏡がある。ボクは見た。眼が大きくて口も大きくて後ろ向きで動く鏡女を見た。鏡女がお前を連れて行った。どこかへ行ってしまえ! サヨリ、お前は死んだんだ」


 三人分の料理。ひとつは手つかず。薄暗い食卓。無言の食事。消え入りそうな母親。奇麗に平らげたふたつの皿。ひとつは手つかず。

 ボクはドアを叩くノックの音を無視して布団を頭からかぶった。やがてノックの音も消えた。
 とても寝苦しい夜だった。何度も何度も寝返りを打ち、ふと、窓を見上げたときだった。
 右手に赤い手鏡を持った女のシルエットが浮かんでいた。
 彼女は不思議なことに、後ろ向きだった…………。

 そのときボクの脳裏に浮かんだ言葉。
「鏡女に狙われた人は、ぜったいに、逃げられないんだって」


                                     了




Posted by BBあんり at 21:04│Comments(0)鏡女 (短編)
 
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