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Posted by TI-DA at

2013年04月04日

輪獄(りんごく) 短編

  輪獄(りんごく)

     9
 9という数字がなんの前ぶれもなく、視覚、聴覚、触覚などを凌駕(りょうが)する存在感でもってワタシの前に姿を現した。
 シャーペンの芯を落としたら9(ここの)つに割れ、本の朗読に当てられるのも9番目。なにかと、9という数字がワタシの身に付きまとう。『キュー・ピース』というコミックをもらったのだけどいきなり9巻だったり9匹のゴキブリに襲われたり一日に9人の男性から告白されたからといって人生に大きな影響はない。
 だから思う。9がどうしたの? と。
 ところがここに来て変化が訪れた。
 ワタシの身に降りかかる数字が、8に変化したのだ。
 曇ったガラスに浮かぶ8という数字。八匹の蜂に追われ近所の犬に襲われそうになった。ちなみにこの犬の名はハチ。クラスメイトから小説をもらった、タイトルは『アハト』。意味を調べると、ドイツ語で8だった。
 さすがに気味が悪くなった。友達に相談しても、そんなの気のせいよ、だとか、今年は受験なんだからしっかりしなさい、やら、マンガの読みすぎよ、などとまともに取り合ってくれない。そこで白羽の矢が立ったのが、逸司(いつじ)だった。
 彼は読書家でかなりの博識(はくしき)。それなのにもてない。何故なら、爆発した花火のような髪形で、なおかつ間の抜けたような顔をしているから。もちろん会話など交わしたことなんかないし、彼が異性と会話をしているところも見たことがない。だからだろうか、ワタシが不思議な出来事を話すと、彼は間抜けそうな顔をさらに崩して答えた。
「それはとても、不思議な現象だね」
 ちょっと気持ち悪くて、会話を交わすのが苦痛だったけど、続けるしかないと思い頑張った。
「誰も信じてくれないんだよ。ひどいと思わない?」
「映画のような出来事だね。ジム・キャリー主演の《ナンバー23》とか、ああ、でも、カウントダウンだったら、《セブンD》のほうが近いか。どちらも数字の謎を前面に持ってきた映画だよ。一度、見てみるといい」「解決策とかないの?」「ごめん、それはボクにもわからないよ」「数字が《0》になったら何か起こるのかな?」「それも、わからない」
 頼りにならないわね、とワタシは憤慨(ふんがい)すると同時に、先の見えない未来に、恐怖した。

     ○
 あなたは取り返しのつかない過ちを犯したことに後悔していた。何所(どこ)で道を誤ったのか、考えを巡らせるといろいろありすぎて特定できない。ただひとつだけ、これではないのか? と思う節がある。三つ年上のショウゾウという男性との出会いがそうだ。団子のような鼻をしているけどとても思いやりのある人。初めて会ったときは異性として意識はしなかった。だけど数年後、偶然、彼と街で再会し、居酒屋に入りその夜、酒の勢いもあって一夜を共にした。そういう行為が尾を引いたのか、当時付き合っていた恋人と別れ、三度(みたび)ショウゾウと出会い、意気投合し、交際が始まったのだ。それからというもの、あなたは今までに経験したことのない幸福感を味わった。ショウゾウは人生において二人目の恋人、だから、だろうか。若いころの盲目的な恋愛ではなく、自我の確立した恋愛。心から大切に想い、心から愛(いと)おしく思う。この人と、これから先の人生、ともに歩んで行くのだろう、と魂がそう感じていた。
 まだ二十代なのにすべてを悟ったかのような思考。
 それが、すべての過ちだった。ショウゾウを好きになったことが間違いだった。この出会いが、不幸の始まりだった。

 あなたは今ベッドの上。口からは太い管が伸びていて、その先につながれているのはデジタル数字が浮かんでいる四角い機械。コシューコシューと音を立てている。手首には太い針が刺さっていて透明な液体が体内に流れ込んでいる。それから、下腹部からも。

     7
 授業が終わるとワタシは、逸司(いつじ)と会うようになっていた。数字が関連する映画をいろいろと見せてもらった。『π(ぱい)』やら『ケース39』やら『10ミニッツ・アフター』など。今日はカウントダウンだけという理由で『インデペンデンス・デイ』なども見た。ああ、映画ってやっぱり面白いわね~、と伸びをする、って、何リラックスしてるのよ! 意味もなく逸司を殴る。なんで殴るんだよ、とぶつぶつ呟いて彼が言う。
「今のところカウントダウンは《8》で止まってるんだろ?」
「ええそうね。もしかしたらすべて、ワタシの気のせいだったのかな」
「そうかもしれないけれど、油断は禁物だよ。もう少し様子を見たほうがいい」
 彼の言葉を聞いてワタシは悩んだ。今は《8》という数字で止まっているけどあいかわらずこの身に付きまとっているのだ。何気なくテレビをつけるとドラマが第八話だったり、父親が借りてきたDVDが『ハチ公物語』だったりして、もううんざり。だけど、8という数字がただ単に連続で眼の前に現われているだけで、偶然でしかないのかもしれない。意識しすぎなのかもしれない。ただの自意識過剰? まあいいわ。いくら考えても答えは出ないのだから。
「未来に飛んで先の人生を見てみたいわ」
「ははは」逸司は鼻で笑って答えた。「時空を飛ぶなんて無理だよ。大人気テレビドラマのヒーローズとかガイ・ピアース主演のタイムマシンとかの見すぎだよ」
 どっちも見てません!
 怒りを露(あらわ)にするワタシにかまわず逸司は続ける。
「肉体は、時間という概念(がいねん)に捕らわれている。先へ行けば朽ちるし、さかのぼれば若輩化(じゃくはいか)する。映画のようにはいかないよ」
 冗談をまじめに返されてなんだか情けない。それを払拭するようにワタシは言った。
「とにかく、もうカウントダウンは止まっているんだから、あまり気にしないようにするわ。これからは日常生活に専念する。こんなことで高校生活を棒にふるなんてあり得ないもんね」
「そのほうがいいよ。あ、そうだ」何かを閃いたように、逸司が立ちあがった。
「今日も家まで送るけど、ちょっとだけ回り道をしよう」
 ちょっとだけ、と言ったのに四十分も歩かされた。辺りはもう真っ暗。風が強く吹いている。背の低い木々が揺れている。それもそのはず、ここは海を見下ろす崖(がけ)の上。ああ、絶景かな、などと感動している場合ではなくてワタシは逸司に詰め寄る。
「こんなところに連れて来ていったい何をしようというの?」
「これを、見せたかったんだ」
 そう言って逸司は上空を指さした。
 彼に促(うなが)されて見上げる。
 低い空。すぐ眼の前にある無数の星たち。網膜(もうまく)に飛び込んでくるまばゆい光。視界を埋め尽くす光と闇のコントラスト。宇宙を、間近に、感じた。
 涙を流しそうになっているとき、逸司が静かに語りかけた。
「気のせいとかじゃあ、ないかもしれない」
 え? と驚いた顔を彼に向けると、
「北斗七星だ」
 カウントダウンが、再開、された。

     ○
 大人の男と女、過去は関係ない。それが常識だろう。と、『セックス・アンド・ザ・シティ』で言っていたけどそれは一般論であってすべての人に当てはまるとはいえない。何故ならば、あなたは過去に怒り、過去を悔(く)いていた。歴史に刻まれた出来事は、未来に消せない傷跡を残す。記憶もまた、あなたの内(なか)に異物として永遠に残る。
 潔癖症(けっぺきしょう)気味だったショウゾウはだから許せなかった。酔った勢いであなたは他の男性に唇を許した。その現場を見られたのだ。だけどあなたは『許した』のではなく『奪われた』と主張した。大なり小なり人はみなウソをつく。たまたま《大》のほうが発覚しただけ。しかしウソは存在を知られると真実になる。バレた以上、修復するには謝るしかない。あなたはひたすら謝った。ごめんなさいごめんなさい。あなたは理由も述べた。ウソをついた理由は、ずっと好きでいてほしかったからなの。ごめんなさいごめんなさい。あなたは約束もした。もう二度とウソはつかないから。ごめんなさいごめんなさい。
 しかしショウゾウの怒りは度を逸し、あなたの人生に悲劇を刻み込んだ。

『殴られたりバカにされたり振られたりケガをさせられたり、いろいろと負の行動、現象があるけど、俺は、裏切られるのが一番許せないんだ! 何故、ウソをつく! お前を信じて、ずっと信じて、最初で最後の結婚式を、と考えて、いっしょに相談とかしたのに、俺はなんてマヌケなんだ。恥ずかしくて死にたいよ。他の人は、そんなことくらいで、なんで怒るんだよ、と言うかもしれない。でも俺は許せないんだ。他の仕打ちは俺にとってどうでもいい。だけど、裏切りだけは、ダメなんだ! 正直に話してほしかった。酔った勢いでキスをしてしまったの、と素直に言ってほしかった。ウソで隠してほしくなかった』

 あなたは風を全身で受けていた。足元でいくつもの小さな光が交錯(こうさく)し、いろんな音が飛翔している。この位置だと、空が近い。雲が眼と鼻の先でゆったりと流れている。あなたは両手を広げ、すべてを吸収した。これが、世界。これが、あなたが生きた世界。もう、触れることも見ることも感じることもできなくなるのだから、すべてをこの一瞬で味わおう、残すことなく吟味しよう、そう思い、しばらくの間五感を研ぎ澄ませた。
 それから数分だろうか、十数分も経っただろうか――
 あなたはおもむろに、虚空(こくう)に向かって足を踏み出した。

     6
 数字は姿を変え、また、趣向(しゅこう)を凝(こ)らし、ワタシに襲いかかってきた。
 数字にはどんな意志が宿っているのだろうか。何を成(な)そうとしているのだろうか。
 真相にたどり着くには、ただ静かにカウントを続けさせてゼロになるのを待つしかない。
 どうすることも出来ない無力感がワタシを支配していた。だけど、逸司(いつじ)は違った。いつもと変わらない態度でワタシと接する。でもそれが嬉しかったりする。心を、軽くしてくれる。
「ゼロまでは何も起こらないし無事だということだよ。あはは」
 あははじゃないわよ! と憤慨(ふんがい)したけどそれも一理ある、と同時に思った。ゼロになるまではカウントダウンが続くということ。ゼロまでは奇妙なことがずっと起こるとしてもカウントは続けられる。すなわち、それまでに対策を練り、解決策を見つければいい。数字はまだ《7》。焦る必要はない。悲観することもない。
 ある日の放課後、逸司が、今日は図書館に行こうと言いだした。断る理由もないからついて行く。平日の夕方なので、学生が多い。いろいろな制服姿が入り混じっている。
 館内には、紙のすれる音と咳ばらい、ヒーリング系の音楽が邪魔することなく流れている。そんな図書館はきらい。周りに気を使うのが面倒くさい。
 落ち着かないワタシの態度に気づいたのか、逸司は急ぎ足で、目的の本を持ってきてくれた。
「予言関係の書と、映画『π(ぱい)』が神の数字なら悪魔の数字もあるかなと思ってこういうのも見つけたよ」と言って、カオス理論やら獣の数字やら不思議な数のお話しやらパラサイト・カウンティングといった胡散(うさん)臭い本までいろいろ眼の前に置いた。
 はいはい、読みますわよ。
 閉店の音楽が流れ始めたころ、ようやくすべての本を読み終えた。といっても、目次をはじめに開き、関係がなさそうなページはスルー。実質的には本の三分の一程度しか読んでいないのだけど。そして収穫は――。
「参考になりそうなことなんてぜんぜんないじゃないの!」
 周りの視線が一点に集中して、ワタシは顔を伏せた。
 帰り道、逸司はずっと黙っていた。最後に怒鳴ったことを根に持っているのだろうか。彼は自分の時間を犠牲にしてワタシのために動いているのだからもっと感謝しなくてはいけないし認めてあげなければならないのにごめんなさい。でもその謝辞(しゃじ)は、口から飛び出すことはなかった。
 いつものようにワタシの家の前まで送ってくれて、それじゃあ明日、と逸司が背を向けた。ワタシは彼を止めてありがとうと言いたかったけど、先ほど同様、言葉が詰まってしまった。いったいどうしてしまったのかしら。今までこんなことはなかったのに。彼に対して思ったことはすぐに口に出来たのに、こんなことは初めて。訳がわからないことばかりがワタシの身の周りで起こっている。
 ふと気がつくと、逸司が歩を止めている。その顔に浮かぶのは優しい微笑み。
「どうしたのよ」と訊(き)くと、
「いや、まあ、なんというか……」
「髪の毛がいつもより爆発してるんだから早く帰ってお風呂に入りなさい。今のあんた、まるでビッグバンよ」
「えっと、なんとかして、君の身を守るから。うん。ただそれだけ。また明日ね」
 その日の夜、ワタシの脳裏に逸司の言葉がこだまし、しばらく眠れなかった。

     ○
 ハッと我を取り戻したあなたは、不思議な現象を体験したことに驚愕(きょうがく)していた。
 先ほどの過去の出来事は、【思い出した】のではなく、【追体験(ついたいけん)】したのだ。
 そしてその現象の謎を解くカギは、もうすでに【知っている】はずだ、と思い至った。
 だけど肉体にはいくつもの管が刺さっている。ベッドの上で寝ている、寝かされている。身動き一つできない。指の一本すら動かすことはできない。呼吸も自分の意思では困難。
 これが現実。死を待つだけの残りの人生。逃れられない未来。
 あなたは泣いた。涙も出ず、声も出せず、泣いた。
 しかしその嗚咽(おえつ)の隙間に、ある真相が姿を現そうとしていることに、うっすらと、しかしはっきりと、気づいていた。

     6
 普通、カウントダウンというものは、3あたりから盛り上がりを見せるものなのだけど、ワタシの身に降りかかっている現象は、お約束を破るのが好きなようだった。
 逸司の家までのちょうど中間あたりに、小さな公園がある。砂場と池とブランコとベンチがあるだけの小さな公園。通るたびに、池の横を通るのだけど、この日は通過する直前、思わず歩を止めてしまった。
 無数にうごめくオタマジャクシが路上に這い上がり、ワタシたちに向って前進していたのだ。灰色の路面を、真っ黒に塗り変えている。地面がウネウネと波打っている。異常極まりない現象に眼を見張って動けずにいると、ワタシはあることに気づいた。
「見て!」とオタマジャクシを指差し逸司にむかって叫んだ。「カウントが、6になった」
 尾を左右に振るオタマジャクシたち。姿そのものが、数字の《6》だったのだ。
 逸司がワタシの手を取り駆けだす。
「もう家から出るな」と、振り返らずに彼が言う。
「そんなこと言ったって、学校はどうするのよ?」
「命のほうが大事だろ」
「それはそうだけど」と言葉を詰まらせるワタシの眼に、また《6》が飛び込んできた。
 それは、車のナンバー・プレート。
 数字は、66‐66。
 次の瞬間、闇が訪れ、どこかでブツリという音が、響いた。

     ○
 泣き崩れたあとにやってくるすべてを洗い流したという開放感。しかしそれは絶望を受け入れた訳ではないとあなたは知っている。秘密に気づいたのだ。いや、秘密というより摂理(せつり)。すべての理(ことわり)。
【生命は生まれ子を産み血を残し朽ちて行く】
その流れは永遠に続く。
 子を産めなくなったあなたにとっても、この輪廻(りんね)は当てはまる。
 しかしそれは、形を変えて……。

     5
「よかった」
 一面が白に包まれていた。この【白】に慣れるのに、時間がかかった。一分? 五分? わからない。だけど、「よかった」という言葉が、ワタシをパニックに陥るのを防いでくれた。と同時に、逸司の声だと理解した。
「病院?」
「そうだよ。今まで君のお父さんとお母さんがいたんだけど、もう少し待っていればよかったのにね」
「事故?」
「峠は越えたみたいだからもう安心だよ」
「夢を見たの」
「アニメ『アキラ』のセリフ?」
「違うわよ。未来の夢よ。薄暗いところでワタシは泣いていた。でも拘束されていて動くことも逃げることも出来なかった。ただ泣くことしか出来なかった。泣いて泣いて泣きまくって、やがて光に包まれた。すると不思議なことにワタシの身体はいつの間にか解放されていて、動けるようになっていたの。もちろん光へ向かって進んだ。とても明るかったわ。はじめは眼が慣れていなくて何も見えなかったのだけど、徐々に慣れてきて、誰かが座っていることに気づいた。近づいてよく見ようと思ったら、パリン。何かを踏んだの」
「何を?」
「わからない。夢はそこで終わり」
 なんだそれ? という表情で逸司はワタシを見下ろしていた。笑いをこらえながら、変な顔の彼に言った。
「ありがとう」このありがとうにはいろいろ込めたつもりだ。

 退院して数日後、診察のため病院へ。担当医の話しを聞き、ワタシは泣いた。命を取り留めたのだけど、命を生み出すことは出来なくなっていたからだ。

 正月、逸司の家に行った。彼には母親がいないので大変だろうと思いお手伝いをした。料理の準備に片付けや、接待……はなかったけど忙しかった。逸司の親族はぞろぞろやってくる。めまいがした。少しだけ手があいたとき、外に出て風に当たった。そのとき、名前は忘れたけど従兄の男性が隣にやってきた。
 事故とともに、カウントダウンも吹き飛ばされたのだろうか。6という数字も、つづきの5も出てこなくなっている。あのカウントダウンはいったいなんだったのだろう。
けっきょく謎は解かれることなく消滅した。
学校を卒業しアパレル関係の仕事に就(つ)き、それから逸司と婚約。式の当日、ワタシはどうしても隠し通せなくて、このままではいけないと思って、なんでも正直に話さなくてはと考えて、未来を信じて、逸司に自分の秘密を告白した。

     ○
 肉体は、時間という概念に捕らわれている。
 あなたは気づいていた。何故、首を動かすことも、眼を開けることも出来ないし、肉体に感覚もないのに、病院のベッドの上で生命維持装置につながれていることを知りえたのかを。あなたは、開けられるはずのない瞼(まぶた)に力を入れる。苦もなく開く。
 あなたはあなたを見下ろしている。あなたはワタシ。ワタシ。ワタシはあなた。
 あなたはただの肉体。

     4
『正直に話してほしくなかった。ウソを突き通せばそれが真実になる。発覚しなければウソは消滅する。子供が産めない身体というのは、ショックは大きいけど乗り越えられると考えていた。だけどボクは、浮気だけは許せないんだ。よりによって従兄と? もう、知ってしまった以上、忘れることは出来ない。なかったことにして、今まで通りに君と過ごすことは出来ない。これからの人生を歩むことは出来ない』
 ワタシはウェディング・ドレスを身にまとったまま、ひとり取り残された。
 逸司(いつじ)、待って! と叫ぼうとしたとき、ふと脳裏によぎった。
 ああ、カウントダウンは続けられているのだ、と。
 だから、《5(いつ)》《4(じ)》の名前を呼ぶことが出来なかった。

     ○
 意識だけなら過去へ飛ぶことが出来る。肉体の邪魔がなければ可能。予言の謎、過去視の真相。過去へ戻り過去のワタシに伝えなければならないそれが使命。ではどうすればいい? 逸司との交際に口出しする? そんなことをしても盲目なあなたが信じるはずがない。だから気づかせるしかないのだ。過去のあなたは《カウントダウン》の存在に気づいた。詳細はよく覚えていないけれど、《気づいた》というのは覚えている。今度は、もっと早く気づかさなければ。手遅れになる前に。今のワタシのようになる前に。未来(今)を変えるために。
 その前にどうしてもやらなくてはならないことがある。
 あなたはイメージした。慣れ親しんだ家屋。部屋の匂い。ベッドの柔らかさ。エアコンの立てる音。白い壁にかけられているH・R・ギーガーの絵画。時間が止まり、空間が固形化した。あなたは、扉を、開ける。

 リビングでショウゾウは携帯電話で誰かと会話をしている。
「二郎(じろう)兄さんと一夫(かずお)兄さんがこっちに来るって?」
 カウントダウンはまだ続いていた。長い年月を経て、カウントダウンは開始された。過去を変えて未来を明るくする? 甘い考えだった。いったい、この数字の謎はなんなのか。何故、こうも執拗に襲ってくるのか。
ショウゾウの名は、正三と書く。

 ショックを隠しきれず、あなたは外に出た。真上に位置しているというのに、陰りを見せている太陽を不思議に思い、あなたは見上げる。意識体に暑さは感じられない。そして、裸眼(らがん)で太陽を直視することが出来た。そのとき、カウントダウンが終わったことに、あなたは気づいた。
 はるか上空に、金色と黒の《0(ぜろ)》が浮かんでいたのだ。
 過去は変えられるのか、未来を変えられるのか、カウントダウンの意味は何なのか、すべての謎を、このとき悟った。
 数字には起点と終点がある。ところが、《0》には無い、ということに。
 8ではダメなのだ。交差するときルートを変えられるから。
 だからカウントは、《0》まで続けられたのだ。
 この【0】が、人生の意味だったのだと。

                                       了
  


Posted by BBあんり at 18:12Comments(0)輪獄(りんごく)

2013年03月20日

近況報告

サイトの《小説家になろう》にて、長編の、『舌をちょうだい』―ホラー・ミステリーと、『世界樹の花嫁 ~プラント・ワールド~』―バトル・ファンタジーを連載中です。そちらもぜひ覗いてみてください。《小説家になろう》を開いて、朝戸あんりで検索を。お願いします。  

Posted by BBあんり at 22:51Comments(0)

2013年03月12日

少女の嵐 (短編) (ホラー・ミステリー)




『人間以外の生物もまた、感情を持っている。喜怒哀楽は人間だけの特権ではない。その《当たり前》を知らない人が多すぎる。人間のように細かくは感じられないだろう。人間よりは大雑把(おおざっぱ)だ。しかし、そういった感情は当たり前に持っているのだ。
 それは『脳』を持たない植物もしかり。
 美しい音楽を聴かせたり優しく語りかけるといった愛情によって、すくすくと、活き活きと育つ。それはすでに周知の事実。植物の粒子が音の振動によって発育が良くなる、という説もあるが私はそうは思わない。それだと早く枯れたり発育が未熟であったりするものが出てくる理由が成り立たない。
 ならばなぜ植物は感情を持っているのか……。
 感情が存在する場所は脳にあらず。すなわち、精神とは心にあるのだ』

                             「現山(うつつやま)八戒(はっかい)『家畜論』より」





 ※月♯日午後五時三分、雨。大手スーパーマーケット、アパレル・ショップ、パチンコ店、ファミリー・レストラン、コンビニエンス・ストア、書店といった、有線放送を流しているすべてのショップや店舗に、『レインマン』と名のる人物の演説が強制的に放送された。いわゆる、電波ジャックだった。
『私はもう知りません。あなたたちは取り返しのつかない過ちを犯しました。はい、そうです、あなたですよ~。知らない顔をしても無駄です、キョロキョロ他人を見回しても無駄です、あなたです。地球は怒っています。手出しできないことをいいことにあなたたちは好き放題やってくれましたね。それで地球は激怒しています。泣いています。臨界点を突破して限界点に到達して沸点を迎えました。もう手遅れです。あがいても無意味です。あなたたちは終焉を迎えました。種のゴールというか行き止まりというかそういうモノです。とにかくあなたたちは滅びの日を迎えたのです。(パチパチパチ)聞こえませんか? 地球の絶叫が。感じませんか? 地球の怒りが。残されたわずかな時間を好きに過ごしてください。崩壊は、すぐそこにあるのですから。私はもう知りません。あなたたちは取り返しのつかない過ちを犯しました。それではまた来週~。(パチパチパチ)』
 これが『レインマン』初めての演説だった。変声機(へんせいき)を使っているらしく、レインマンが男なのか女なのか、年齢すらもわからなかった。それに、映画『レインマン』と何か関係があるのかもわからない。一切が、謎。
 人類に警鐘(けいしょう)を鳴らしたレインマンだが、ただの変人としてしか扱われなかった。しかし、一部の者は感銘(かんめい)を受けたらしく、レインマン信者と化したのだ。彼らはネット上で仲間を募り、瞬く間にその数を増やして行った。

     ☆

 ボクはレインマン信者の不穏な動きなんかよりも気になることがあってそれどころではなかった。その気になることというのは、ボクが路上ライヴに聴き入っているときに起こったらしく――らしく、というのはボクもはっきりとはわからないからだ――ボクの左手を、グッと握る少女がいたからだった。雨と音楽に気を取られ、手をつながれたことに気づかなかった。その少女は、どんなことがあろうと、絶対に手を離そうとはしなかった。
「えっと……君は、誰?」という問いに対し、少女は無表情のまま、「アグラコ」「ア、アグラ……字はどうやって書くの?」「地大子」「それで地大子(あぐらこ)って読むんだ……とっても、個性的な名前だね」「あなたの名前は?」上目づかいの瞳に流されて、「ボクは平蔵(へいぞう)」などと悠長に会話している場合ではなくて、地大子は手を離さない。無理に引き剥がそうとすると爪を立ててよけいに食い込ませてくる。とても痛いのでもう強硬手段に出ることは出来ないとボクはあきらめた。
 手をつないだままのこの生活は、今も続いている。

     ☆

『は~い、お久しぶりでぇす。みんなのアイドル『レインマン』登場だよ。先日、某大国に大型ハリケーンが上陸しましたね。あれって私の仕業(しわざ)です。信じられないかもしれませんが、私は地球の使者なのでそういうことが可能なのです。ごめんなさいね。でも、これからもまだまだ続きます。だって、地球は怒っているんですから。自分たちがまいた種ですのであきらめてください。それではまた来週~』
 今度はテレビをジャックした。レインマンはカメラの前で演説した。背景はありふれた白い壁。そのため場所の特定は出来ない。映画『ヘルレイザー』のピンヘッドという魔道士のゴムマスクをかぶっているので男なのか女なのかもちろん変声機で大人なのか子どもなのかもわからない。顔中に突き刺さっている釘のような突起が、レインマンが話す度にグニグニと動いて気持ち悪かった。レインマンの演説はほんの数秒だったけどテレビをもジャックしてしまうなんて只者ではないなとボクは感心したけどそんなことよりも、えっひゃっひゃひぃ~と笑いながら見ていたバラエティ番組を中断されたことのほうが、とても腹が立って許せなかった。だから楽しみを中断されないようにDVDを取り出した。取り出したのは大好きな『鬼平犯科帳』だった。DVDをプレイヤーに挿入したとき、地大子(あぐらこ)の存在が気になって自分の名前のことを思い出した。
 ボクは平蔵という名前のせいでかなりいじめられた。一時期は本気で親に(この名前は父親が命名した)名前を変えてくれ、と頼んだほどだ。何でこんな名前をつけたんだよ、と文句を云うと、父親は毎回、「鬼平犯科帳が好きで好きで、とくに平蔵の役をしている中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)の大ファンなんだよ。長谷川平蔵――鬼の平蔵――から取ったんだ」と、答える。何じゃそりゃ! それだと役者の方の名前だったとしてもいじめられるだろうが! と怒鳴ったのは云うまでもない。だけど、親につられて『鬼平犯科帳』を見ているといつの間にかボクも洗脳され、今では平蔵という名前に誇りを持っている次第だった。時代劇とミステリーと料理の融合に打ちのめされた。エンディングに流れるジプシー・キングスの音楽、『インスピレイション』にも感動した。変な名前、などとバカにされるとボクはそいつを、神妙にして縛(ばく)につけ、とは云わないけれど、無言のまま殴りかかった。ケンカが強い方ではなかったのでなかなか勝てない。だけど、どんなに地面をはいつくばってもボクは相手に向かって行った。そのうち相手は嫌気がさし、ごめん俺が悪かった、と謝る。そんなこんなで、いつしかボクの名前をバカにするのは厳禁となっていった。地大子はボクの名前を聞いたとき、変な顔や笑いを押し殺したような顔やクモや毛虫を噛み潰したような顔をしなかった。いたって普通の表情だった。それが、ボクの心の中で、地大子を受け入れる体勢を自然と作っていたのかもしれない。だからずっと手を握られていても、別段、普通じゃないだろと気味悪がったり、嫌気がさしたり、怒りがこみ上げたりといった感情が起こらなかったのだろう。
 ボクは父親と鬼平談議(だんぎ)に浸りたかったけど、数年前事故で他界した。居眠り運転による衝突事故。あっけない最後だった。じゃあ母親と語り合えばいいだろ、と云いたいところだけど母親は鬼平に興味がないので、へえ、ふうん、そうなんだ、あは~、としか返事をしないので鬼平の会話は成り立たない。それに今、母親は熱を出して寝たきりなのだ。今日も今日で母親はベッドの上。会話自体成り立たない。
 いつからだろう……母親の熱が下がらないのは……。

 雨の音が響いてくる。規則的な音が沈黙をリズミカルにする。ボクと地大子(あぐらこ)はソファに腰を並べ、無言のまま鬼平を見ている。やっぱりというか当然というか当たり前というか、ボクは隣にいる少女のことが気になって鬼平に集中できない。だから云った。
「ねえ、この手、離してくれない?」「…………」沈黙……だけど負けずにボクは食い下がる。「何で手をつないだままでいるの?」……「寂しいから」……「寂しいって云ってもこのままじゃいろいろと不便でしょ?」……「ううん」と首を横に振る地大子(あぐらこ)に対し……「いや、よく考えてごらん? トイレとかお風呂とかどうするの? このままじゃ、ボクといっしょに入らないといけないんだよ?」……「いい」……その返事はかなり危険だった。
 地大子(あぐらこ)は十歳だと云った。けっこう大人びて見えて、中学三年だと云っても誰も疑いを持たないだろう。それに、彼女は、かわいいと来ている。『かわいい』と来ている。いけない想いに囚われそうになるボクは悪くない。そうです、ボクは被害者なのです。
 しかも、鬼平って面白いね、などと云うもんだからなおさらかわいく見える。白い肌と肩までの黒髪と大きな眼と左目尻のほくろとナタリー・ポートマンのような笑顔が光っている。
 でも、はっきり云って、彼女はかわいいのだけど、絶対に手を離さないので、不気味だ。

 不気味……①正体が知れず、気味が悪いこと ②そういうキャラクターが出ると映画やマンガ、小説といった作品に味がでること

 鬼平が終わって、お腹が空いたのでボクは高揚(こうよう)とした気分(断言するが地大子ではなく鬼平のせいだ)のままご飯をつくる。やらなければならないというモノは自然と覚えるモノだ。だから料理が出来るようになった。鬼平に出てくるようなおしゃれでレトロで風情のある料理こそ作れないものの、普通の野菜炒めチャーハンカレーライス玉子焼き卵かけご飯などは普通に美味しくつくれる。で、今回は地(あぐ)大子(らこ)がいるということでサトイモの煮っころがしをつくることにした。初挑戦。サトイモはぬめりがすごいので湯がいてぬめりを取る。沸騰した水にサトイモを入れて約七分下ゆでして皮をむく。皮をむいてもぬめりがあるのでそれをさらに水洗いしてぬめりを取る。水気を切ってそれを置いておく。その間にフライパンに油を少々、輪切りにしたシシトウガラシを香りが出てくるまでいためる。さらにそのシシトウガラシを別に取っておく。今度はフライパンにだしを少々、そこにサトイモを投入。サトイモにはまだまだぬめりがあるので約十分いためる。そうしたら酒少々みりん少々みそ少々砂糖少々うす口しょうゆ少々、ある程度からめてから先ほどのシシトウガラシを投入。そこからもう少し煮からめると完成。簡単簡単。調味料はお好みなのでボクは少し多めに入れた。美味しい。
 地大子(あぐらこ)はというと、顔色をまったく変えないので美味しいのか美味しくないのかぜんぜんわからない。だけどその無表情を肯定とみなし、今回のこの料理は成功だと判断した。
 つくづく地大子(あぐらこ)がボクの左手をつかんでいてよかったと思う。ボクは右利きだから料理や日常的な行動など、それほど支障はない。地大子(あぐらこ)は左利きなのだろうか……左手を器用に動かしている。まあ今はそんなことどうでもいい。ボクは初めて作ったサトイモの煮っころがしを母親の寝室へと持っていく。ボクは……というか……ボクたち、なのだけど……。
 
     ☆

 母親の意識は深い霧の中を旅しているらしく朦朧(もうろう)としている。だからかどうかはわからないけど、地(あぐ)大子(らこ)の姿を見ても母親は別段驚いた様子を見せなかった。
 薄暗い部屋の中を、ねっとりした熱気を掻き分けながら母親の寝ているベッドまで進んだ。
「調子はどう?」
 母親の姿を見て体調が良くないのはわかった。腰まである黒髪はあぶらでベトつき、肌は美しさの白ではなく病的な白色でカサカサに乾いていた。美しかった母親はもう何処にもいない。
「ご飯の用意ができたよ。少しでもいいから食べないと……」「あら、平蔵、ありがとう。頑張って作ってくれたのね。それなら無理にでも食べなきゃ」「いいよいいよそのままで。ボクが食べさせてあげるから」「起き上がるくらいどうってことないわよ」「いいからいいから」「そう?まあ、本当に美味しいわ。これなら全部食べちゃうんじゃないかしら」「ダメだよ。胃が弱ってるんだから少しだけにして」「わかったわよ、もう。ああ、美味しい美味しい、おほほほほ。あまりにも美味しすぎて笑いがこみ上げてくるわ。おほほほほ。ところで、その子は誰?」「ああ、紹介するよ。地大子(あぐらこ)って云うんだ。これからしばらくここで暮らすことになったから」
 母親は口を止め、少しだけ思案したような表情になり、再び口をモグモグと動かしながら云った。
「平蔵は妹を欲しがっていたもんね。ついに念願が叶ったのね。おほほほほ。ごめんなさいね、本当にごめんなさいね、お父さん死んじゃってもう妹は出来ないと云ってしまったもんね。許してちょうだい。ああ、アグちゃんのお洋服はどうしようかしら。家にあるのは全部大きいものね」
 そこまで云うと、母親はしくしくと泣き出した。ボクは見ていられなくなり、母親を抱こうと身を乗り出したところで、再び母親が口を開いた。
「アグちゃん、平蔵は別に面白い子じゃないしかっこいいわけでもないけどいつまでも仲良くね。平蔵……あなたはゼロよ。本格的に導入して頑張って。宝くじが当たってお父さんの頭がモフモフして黄ばんで臭(にお)ってベッドが臭い臭いだからわたしは起きてキッチンに行って水を飲むの。足がふらふらして飲んだ水が沸騰してわたしは笑うの。おほほほほほほほ」
 地大子(あぐらこ)がいるのでボクは涙をこらえた。それでもどんどん目頭が熱くなってこれ以上はこらえきれなくなりそうなので母親を抱いた。地大子はそのときもボクの手を離そうとしない。だから仕方なく右腕一本で母親を抱きしめた。

     ☆

 △月×日午後八時三十一分。雨。
『いよいよ滅びのときがやってまいりました。地球様はついに行動に移りました。酸素が足りない酸素が足りない苦しい苦しい、と、聞こえてこないでしょうか? そうです、地球様は助けを求めているのです。私はそれに答えることにしました。酸素が足りないのならつくってあげましょう。清涼な空気を。ばい煙(えん)、粉じん、自動車排出ガス、特定物質などから地球様を守るために、私は、新たな植物を創造しました。ああ、助かった。でも、人間の欲は恐ろしい。だけど私はあきらめない。まだまだ救いの道を追い求める。みんな、地球様の叫びを聞いているか~!』
 パソコンをネットにつなげた瞬間、レインマンの文章が立ち上がった。

     ☆

 奇妙な共同生活は思った以上に困難を極めた。
 たとえばトイレ。
 小さい方はひとりが中に入りひとりは外で待ってその間に用を済ます。ちょろちょろという音が妙に恥ずかしいけど仕方がない。問題は大きい方で、こちらはかなり困(こま)った。ズボンを脱ぐのにも苦労する。でもそれはまだいい。大問題はそのあとだ。ムリムリムリやらボポンやらウハァ~といった音とため息を聞かれるのがかなり恥ずかしい。音を立てないようにトイレットペーパーを先に入れて便器の中にしいて音を殺す。口は開けないようにしてウヒィ~をもらさない。さらに困ったのがその香りで……こちらはもうどうすることも出来ないのであきらめる。トイレに入るだけなのに一苦労だった。
 たとえばお風呂。
 いっしょに入るわけにもいかず、かといって片手で入るのはまず不可能と思われたので、相談した結果、濡れタオルで身体を拭くことにした。アグちゃんは別にいっしょに入ってもいいよ、と云ったが、もちろん無理。アグちゃんを妹としてではなく女として意識してしまう気持ちがある間は無理。入りたい気持ちがあるけど入らない。ちょっとは気持ちがぐらつくけど我慢。妄想が暴走するけど瞑想で彼方へ。
 たとえば着替え。
 こちらもどうすることも出来ない。洋服を右手から脱いでも左手を通過してアグちゃんへ行ってしまう。ひっくり返った形でアグちゃんが着ることになる。そこで終わり。あとはもう洋服を切るしか方法はない。そうもいかないので着替えはしないことにした。
 たとえば学校。
 高校二年なので別に受験を気にしなくてもいいから行かないことにした。こちらは問題ない……いや、大あり。単位を落としたり出席日数が足りなくなったりして進級できなくなるからあまり休んでばかりもいられない。だからといってアグちゃんといっしょに行けるはずもなく、こちらも暗礁に乗り上げたままの状態。
 いろいろと問題があるので、何とかアグちゃんの手を振り解(ほど)こうと挑戦した。
 男の力をなめるな~! と、力づくは先も述べたように、爪を食い込ませて抵抗して血がにじみ出てくるので無理。
 力を抜いて、リラックスして、油断させて、変な笑い声を上げて、UFOを見たような表情を浮かべて、突然、パッ、と手を引いても、その一瞬の筋肉の動きを察知して手に力を入れる。
 アグちゃんが寝ているとき、今だ! と、手を抜こうとしても何故かそれすらも察知する。なんだ起きてるのか、と彼女の顔を覗くと、不思議なことに彼女は完全熟睡。
 この、ぐッと握られた手を離すことは、絶対に無理だと悟った。

 無理……①道理のないこと ②強いて行うこと ③するのに困難なこと ④ある程度は努力で突破できること

     ☆

 学校を休んですでに五日。土曜日の午後。同じクラスのイマオが家にやって来た。これがイサオなら、鬼平に出演している尾(び)籐(とう)イサオとなるのだが実に惜しい。実際はサミュエル・L・ジャクソンをもっと日本風にしたような顔で、何処かしまらない変な顔をしているのだが。
 イマオはただでさえ大きく開いた鼻の穴をさらに広げて云った。完全に人間の鼻の穴を超越している。
「びしょびしょだよ。タオル貸してくれ」と云いながら、ずうずうしく中に入ってきた。
 イマオを玄関で待たせてバスルームからタオルを持ってきて渡すと、彼はチラチラとある一点に視線を送りながら身体を拭いた。ボクは濡れたタオルを受け取ってそれをバスルームへ戻してイマオを上げてリビングへ。移動の間もイマオの視線はある一点を。リビングに入るとイマオを長椅子に座らせて冷蔵庫からオレンジの缶ジュースを取り出して投げる。上手くそれをキャッチしてプシュッ。ギュコギュコと喉を鳴らして飲み干してからイマオは丸い眼と丸い鼻の穴を向けて口も開いた。
「お前たち、なんでずっと手をつないでいるんだ?」
 不思議がるのもごもっともです。変に思うのが普通です。だからボクは今までの経緯を話して聞かせたのだけど、イマオの表情から何処まで信じているのか判断は出来なかった。
「まあいいや」いいのか?「それよりもほら」と手渡されたのは彼のDVDコレクションの一部だった。
「おおおお。『ザ・コンヴェント 死・霊・復・活』『アイデンティティー』『デイヴは宇宙船』『ゼイリブ』『ホワイトナイツ 白夜』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『老人Z』『少林寺木人拳』『キリング・ミー・ソフトリー』……ホラーからコメディ、アクション、エロティックまで。しかも全部名作。ありがとう友よ! でも、この状況じゃエロティックが見れね~!」
 イマオはサミュエル・L・ジャクソンのようにくりくりした眼を細めながら云った。
「当分、学校には来れないようだな。近いうちにまた他の映画を持ってくるよ」
「ありがとう。それよりも、みんな心配してるかな?」
 そこでイマオは少しだけ顔を曇らせた。しばらく口をモゴモゴさせて気持ち悪い顔をさらに見れないものにしている。イヨイヨ彼の顔が怪物じみて来たときやっと口を開いた。ホッとする。
「それなんだけど、実は登校拒否してるの、お前だけじゃないんだよ」
「他にも誰かいるのか?」
「誰か……ていうか、半分以上……」
「うそだろ」
「理由はみんな違うみたいなんだけど……なんだか……ちょっと怖いな」
 それから少しの間日常的な会話をしてイマオは腰を上げた。不自由してるみたいだから気が済んだら手を離してあげてねアグちゃん、と云って玄関へ。左から靴を履き(靴下も靴もかならず左からというのがイマオのこだわりらしい)振り返って気持ち悪い笑顔でさようなら。扉が閉じられると、ある不思議な光景が残像となって扉に浮かんでいた。その不思議な光景というのは、あり得ないような現象だった。
 最後に笑顔を見せたイマオの口の中が、緑色に変色していたように見えたのだ。
 まあ…………気のせいだろう……。

     ☆

『ホワイトナイツ 白夜』を見終わって、その結末に感動して、ダンス・シーンに興奮して、ストーリー構成に衝撃を受けて、旧ソ連の体制に悲観して、ミハイル・バリシニコフとグレゴリー・ハインズの演技力に涙して、食料が底をついていることに気づいた。買いに行こう行きましょうということになって外に出る。気が滅入るほどの大雨。一メートル先も見えない。それでも買い物に出かけなくてはならないわけで、ボクたちは傘を一本取り出して天然シャワーの中へ。
 道路を叩く音、傘を叩く音、家々の屋根を叩く音、木々を叩く音、そのどれもが違う旋律を雨水の一粒一粒が奏で、息のあった音楽を作り出している。音楽を聴いているとふいに不安になってきた。その幻想感が、いろいろな感情を芽生えさせ、このままではいけない、と再認識させてくれた。だからボクは、音に負けないように大声で隣を歩く少女に云った。
「アグちゃんの家は何処?」「何でそんなこと聞くの?」「だって、両親が心配してるだろ?」「……親は……いない」「いないって……ごめん。じゃあ、今までは何処にいたの? 親戚の家とか?」「親戚も……いない」「え? じゃあ、何処に住んでたの?」「何処でもない」
 はああ? なんだか複雑になってきた。もしかして地大子(あぐらこ)は記憶喪失? だから不安につぶされないようにボクの手を握っているの? そんなことってある? わからないけど、実際にそうなっているのだからあるんだろう。じゃあ、何とかして彼女の記憶を取り戻さなくてはならない。そうしなければ、一生、彼女と手をつないだままということになる。友達は去って行くだろうし恋人も出来ない。好きな子に告白しても、この変態! と云われて終わり。でも、好きな子なんて今はいないから問題ない。これから先はわからない。ジェシカ・アルバやエイミー・アダムスやシェリリン・フェンのような女性が現れたら恋に落ちる。そして、そんな恋人と結婚したい。だから何とかしなければならない。
「アグちゃんはもしかして、記憶がないの?」「ある」「え?」
 なになになに? 意味がわからないんですけど。じゃあ、何で地大子はボクの手を離さないの? 何か理由があるのだろうか。あるのならそれを説明できる理由って何? どんな理由? わ・か・り・ま・せん!
 ここでひとつの未来が飛来してきた。身元不明手握り美少女とボクによる挙式の映像。大人になったアグちゃんはジェシカ・アルバやエイミー・アダムスやシェリリン・フェンなんかよりずっとかわいくてみんなうらやましがっている。それはそれで悪くないかも、などという想いを払いのけて、現実に戻る。
 この状況は普通ではない。状況……というより、彼女だ。そう、彼女は異常なのだ。

 異常……①普通とは違うこと ②正常な人を捜すのが困難。みんな何処かしら異常性を持っている

 打開策を考案しようと試みている途中で食品スーパーに到着。思考を中断していろいろな野菜をカゴに入れる。商品をレジに持っていくと案の定レジの女性はボクたちをチラチラ。それはイマオの態度とそっくりというよりまったく同じで、はいはいボクたちは仲の良い兄(きょう)妹(だい)ですよだからそんなに見ないでね、という態度で会計を済ませて針のような視線を背中に受けながら外へ出る。
 雨は霧のように細かくなっていた。密度が濃いため視界は悪い。歩き出して約五分。
 ボクたちは『レインマン』と出会った。

     ☆

『夢を見たの。人類が滅びる夢。それは、決して逃れられない運命。それを、回避することは出来ない。夢を見続けるとどうなるか知ってる? 夢と現実の境界が曖昧になるの。境界線の扉が開かれるの。そうなるとどうなるか知ってる? 夢の住人が実態を持つの。それは幻覚も同義。幻覚を見続けると現実の存在となる。自分しか見えなかった存在が他人の眼にも映るようになる。幽霊、生霊、妖怪、天使、悪魔、妖精、ドッペルゲンガー、鬼、宇宙人? 日本中……否、世界中の人の夢や幻覚が現実となったらどうなるのか。はたしてその存在を、他人の虚構から産まれたと認識できるのか。いいえ出来ません。何故ならばそれは眼の前にいる、眼の前に存在する、まぎれもない本物だからです。云い換えれば、自己暗示の伝染、でしょうか……。みなさんは生命の定義を知っていますか? それはみっつあります。自己と外界を隔てる境界、外からエネルギーを取り入れる代謝、そして自己複製。それらのみっつが備われば、生命といえるのです。たったそれだけなのです。想いの強さが現実になると、それが虚構だと識別することなんて無理。無駄。あがき。無意味。あああああ切ない。現実となった妄想を修正するなんて出来ません。無理。無駄。あがき。無意味。夢を見たの。人類が滅びる夢。それは、ゆっくりと浸透して行き、人類が気づいたときには手遅れになっているの。これから、世界は変貌する。未知なる領域に突入する。私はレインマン。地球の代弁者。地球の代理人。あなたたちの取るべき道は――』
 駆けつけた警官によってゲリラ演説はそこで中断された。レインマンの周りを警備していた信者の数人が逮捕されたが、レインマン本人は逃げ切ったようだ。
 レインマンは思ったより小柄だった。否、かなり小さかった。百五十センチ半ばほどだろう。それに華奢(きゃしゃ)で清潔感を備えていた。ただの狂人変人ではなく教養があるように見えた。今回は、『ドニー・ダーコ』の銀色のうさぎのマスクを被っていたのでやっぱり素顔はわからない。やっぱりマスクをかぶるような人なので、変人だ、と考えを改めた。
 警察による捕り物をしばらく見物し、誰もいなくなってもまだしばらく動けずにいたとき、ボクは左手をグイグイと引っ張られて我に返った。
「ねえ、早くご飯にしよう?」
 霧のような粒子と化した雨は傘の利用価値を喪失させていた。横からはもとより、風にあおられて下からも降ってきた……昇ってきた……? これじゃあ傘なんて必要ないね、と云いながらボクは傘をたたむ。よし、濡れるぞ~! という心持ちだとなんだか楽しくなってくる。どうやら地大子(あぐらこ)も同じ気持ちのようでとても楽しそうだ。あまりにも楽しくてスキップしたくなるがそれはやめる。
 同級生のヒソシくんの家を(こいつは丸刈りで頭部が卵の形をしているのでエッグマンと呼ばれている。一瞬、こいつが『レインマン』の正体か? と脳裏をよぎったが、エッグマンはいつもボウッとして脳の回転が遅いので、はっきり云ってバカなので、違うな、とすぐに疑いを追い払った)通過し、誰の家かわからない家々を通り過ぎる。外界との断絶をはかるかのような塀が並んでいる。
 そこでふと違和感にとらわれた。霧雨は視界を著しく奪っている。だからボクたちは塀の近くまで寄った。真っ白やら灰色やら黒ずんだ灰色やらの塀だったのが、緑色に変色している。いや、変色ではなく見たこともない植物に覆われている。前にこの道を通ったのは一週間以上前なのだが、そのときにはこんな緑はなかった。成長が早すぎるのではないのか? あの家もこの家も緑に支配されている。いったいどうなっているんだ……というより、別にどうでもいいや、というほうが強かったので家に帰る。家に帰ると身体を拭いてお腹が空いているのでご飯をつくる。今となってはアグちゃんがボクの左腕になっているので手伝ってもらって順調に快調にご飯を作り終える。つくったのはレトルトのマーボー豆腐。食べ終えると残りを皿に盛って母親の元へ。
「ご飯できたよ」と云いながらノック。返事はない。しばらく待っても、しぃ~ん。そっと扉を開いて中へ入るとギョッとした。その『ギョッ』はボクの手から料理の乗った盆を落とさせる力を持っていた。
「おいおい何だこりゃ? 母さん、母さん、大丈夫? 返事して!」
 アグちゃんがボクの手を強く握ってきた。それをボクも握り返す。それが現実感となってボクを安心させる。
 母親の口から、得たいの知れない植物がブサブサと伸びて、ニョキニョキと天井にまで達していた。プツプツとイクラのような気泡のような変なものがいくつもいくつもくっついている植物。もちろんテレビや図鑑や空想的なアニメなどでも眼にしたことはない。初めて眼にする。
 母親の口から生えている植物を右手で握り締め、一気に抜き取る、つもりだったけどやめた。その瞬間、口内から血が噴出するような気がしたからだ。母親を殺してしまうかもしれない行動は取れません。だって、母親の胸は上下に揺れているから死んではいないし、それに温かい。
 ご飯を食べられそうにないのでUターン。急いで落としたご飯を片付けてリビングの長椅子に腰かけてアグちゃんと相談開始。
「これからどうしようかな……」「病院に連絡したほうがいいんじゃない?」「いや、それはやめたほうがいい、だって、あんな病状は見たことないし新種の植物だと思うから人体実験の対象になりかねない」「じゃあ、ワタシたちでなんとかする?」「それもどうかな……植物といってもイロイロあるわけで、ウツボカズラやモウセンゴケ、ムシトリナデシコといった食虫植物もいるし、ラフレシアやナンバンギセル、ヤマウツボといった寄生植物もあるからね。つまり植物といってもイロイロな植物がいるんだよ。対処法を間違えたら大変だ、だから下手に触らないほうがいい」「じゃあ、どうするの?」「どうしようか……?」「知らない」「…………」
 ボクの脳裏に突然、光がともり、そうだ! と声を荒げながら左手を上げる。その勢いで繋がれている手が離れる……ことはなくて、やっぱり地大子(あぐらこ)は筋肉の収縮を察知して握力を込めて離さない。まあ、手を引き剥がそうと思っていたわけではないからどうでもいい。それよりも、「ねえ、アグちゃん。レインマンはこんなことを云ってなかったっけ? 『私は、新たな植物を創造しました』って?」「云ってたような気がする」「そう。この変な植物を発生させたのはレインマンなんだよ。あいつが細菌というか種というかとにかく何かをばら撒いた。きっとそうだ。そうに違いない。いや、そうじゃないといけない」「そういえばさっき演説してたわよね。あ、でも、もういないか」「そうだな。だったら情報をつかもう。ネットだ!」

     ☆

 蚊ともハエともセミともトンボとも見える、初めて眼にする、昆虫だった。
 小型のカナブンくらいの大きさで、甲殻類だった。色は薄茶色。足は六本。触覚は二本。プルプル震える感じはオオエンマハンミョウとそっくりだった。ネズミをも食らうオオエンマハンミョウのかっこよさはなく、顔は小動物のように、おびえたようなかわいさがあった。だから普段虫を好まない元太(げんた)でも、その虫に好感を持ってしまった。それが、いけなかった。
 四畳半の部屋、バイトは首になり、面白いテレビもない、彼女がいるでもない、元太は暇をもてあましていたので、蛍光灯の周りをフブブブブ、フブブブブいいながら飛びまわっている昆虫をちょっとかわいいかもとぼんやり眺めていた。するとその虫は元太の右腕にひょいと飛び乗った。プルプル、プルプル、ときおり、チテ、チテ、と鳴く昆虫とにらめっこをしていると、その謎の昆虫は口からにょろにょろと管(くだ)を出し、元太の腕にプスッと刺した。驚いた元太は昆虫を振り払う。昆虫は再び空に舞い戻り、フブブブブチテチテと云う。怒った元太はバカにしているのかこのやろう、と叫びながら枕を昆虫に向かって投げようと試みた。しかし、枕は手から落ち、元太の顔は蒼白となった。彼の視線は刺された部分に向けられている。手首から肘までのちょうど半分くらいの位置に赤黒い吹き出物が出来ていたのだ。大きさは卓球の玉くらいだろうか。元太はそれを見て咄嗟に判断した。これは、毒だ……と。
 吹き出物は時間を追うごとに大きくなっているようだ。今ではもうプリンくらいに膨らんでいる。焦った。得体の知れない出来事、謎の病原体、恐ろしい現象に元太の思考は錯乱した。とにかく毒を体外に出そう。元太は吹き出物を指でつまみ、一気につぶした。しかし、ムリュッと云ってつぶれない。余裕のある風船をつぶそうとしたときのような感触。もう一度元太は吹き出物をつぶそうとした。ところがまたムリュッ。指のすきまから飛び出す粘土のように吹き出物はつぶれてくれない。そうこうしているうちに、地の底から響いてくる地響きが自分の体内から感じられ、そのゴゴゴゴゴはかゆみとなって元太を襲った。想像を絶するかゆみ。蚊に刺されたのなんて話しにならないほどのかゆみ。ダニもしかり。今までに経験したことのないかゆみ。うるしもしかり。乾燥もしかり。あまりのかゆさに、元太は狂った。
 かゆいかゆいかゆいかゆいかゆい。
 ガリガリと腕をかきむしり、爪が肉の内側へ入り込み、爪の間に肉片が詰め込まれ、直接骨をゴリゴリとやってもかゆみはとれない。
 がゆいがゆいがゆいがゆいがゆい。
 やがてかゆみは腕をのぼり、肩、首、頭部へと移動してきた。そして元太は気づいた。
 吹き出物は、肩、首、頭部にも出来ていて、さらに気づかなかったが、両脚、腹部と、全身にいくつもいくつも出来ていたのだ。気づいた瞬間、元太は正気を取り戻した。狂気を正気に戻すものすごい力だった。もしもこれらがいっせいに、元太という全存在にかゆみを運んできたら…………という不安……。
 奇妙な昆虫は元太の混乱をよそに、悠々とフブブブブ、フブブブブと飛び回り、ときおりチテ、チテと鳴き、わずかに開いた窓から外へと飛び出して行った――仲間の元へ、と……。

     ☆

「それでは友人代表の挨拶をお願いしたいと思います。弧戸(ここ)子(こ)さん、どうぞ」
 盛大な拍手に迎えられて弧戸子は壇上に立った。あらわになっている耳が真っ赤になり、桃色の頬は紅に染まっている。緊張に押しつぶされそうな弧戸子に対し、新婦が優しく囁く。
「大丈夫よコッコ。いつもどおりでいいの。何も緊張することはないわ」
 弧戸子は新婦の顔を真っ直ぐに見つめ、大きくうなずいて、ようやく口を開いた。
「トミヤスくん。シャコさん。本日はご結婚本当におめでとうございます。私はシャコさんの親友である弧戸子と申します。友人を代表して、お祝いの言葉を述べさせていただきたいと思います」――拍手。
 そこで弧戸子は親友のシャコへと視線を移した。するとシャコは女神のような笑顔を浮かべたまま顔を横に振った。それを見て弧戸子は大きくうなずいた。
「まあ、こんな形式ばった挨拶はこれで終わりたいと思います。正直云って、私たちは聖女と呼べるような存在ではございませんでした。いろいろと悪いこともしましたし、いっぱい遊び歩きました。それでもこれだけは云わせてください。シャコさんは、世界中で一番優しい心を持っているのです。こまっている人を見かけたらほってはおけない性格で、何度も何度も赤の他人を救ってきました。私はシャコさんとともに行動して驚きました。この世には、こんなに優しい人間がいるのか……と。彼女は人助けの使命感にあふれていました。そんなシャコさんの前に、ある日、立派な男性が現れました。その男性とはもちろんトミヤスくんです」
 弧戸子はここで言葉を切り、辺りを見渡した。熱い視線を満足げに受け止め、ぐるりと、最後にはシャコへと顔を向ける。シャコは真っ直ぐ弧戸子の視線を見つめ返し、優しい笑顔でうなずいた。弧戸子もまたうなずき返し、顔を正面へと戻す。そして、挨拶を続けた。
「トミヤスくんも責任感を持ち、さらに優しさもかねそなえています。みんながうらやむ完璧な男性です。ある日のことですが、恋愛のことで相談があってシャコさんに相談しようと家に伺いました。ところがシャコさんは買い物にでかけていてトミヤスくんしかいませんでした」このとき何処かから、ピシャンという音が響いた。しかし、酒と興奮と感動によってその音に気づいた者はいない。弧戸子は続ける。「すぐに帰ってくると思い私はトミヤスくんと少し会話をすることにしましたするとどうでしょうこの人はトミヤスくんでしょうかいや見知らぬ男性ですトミヤスくんの眼がこんなにもギラギラしているわけがありませんトミヤスくんの鼻息がこんなに荒いわけがありません。
 はい、こんなことがありました。ジュクジュクとした汗をぬぐいました。
 グラスに入ったお酒を飲むかと思いきやブクブクブクブクブクブクブクブクするとどうでしょうお酒がコーラになって空に飛んでいきました。
 はい、こんなことがありました。ジュクジュクとした汗をぬぐいました。
 歌をうたったのです。ヨ~ロレイ~ヒ~♪ ヨ~ロレイ~ヒ~♪ ああ、なんてことでしょう。そのあとをトミヤスくんが続いてくれたのです。この一体感、連帯感、快感、言葉にはあらわせられません。だからふたりで合唱しました。ヨ~ロレイ~ヒ~♪ ヨ~ロレイ~ヒ~♪
 はい、こんなことがありました。ジュクジュクとした汗をぬぐいました」
 おい! 誰か止めろ! 叫び声が上がった。しかし、誰も動かない。
「愛し合ったのはこれが初めてではありません。初めてだったのですが初めてではありません。そうですそうです愛し合っていたのです。私的に云えば悲劇です。世界的に見たら喜劇です。だからジュクジュクとしたのです。それからそれから私とトミヤスくんは――」
 シャコはそこで大声を出して泣き出した。トミヤスは立ち上がり弧戸子をとめるため足を前に出そうとしたところでとまった。そう、文字通りとまったのだ。これ以上足を前に踏み出すことが出来なかった。それはトミヤスだけではなく、会場のすべての人がそうだった。固唾をのんで見守るその先には、眼、鼻、口から血を流し、尿を垂れ流している弧戸子の姿があった。
 ドロドロとした血を撒き散らしながら弧戸子は続ける。
「ばい、ごんなことかありまじだ。ジュクジュクどじだ汗をぬぐいまじだ――――」

     ☆

『はい、こんなことがありましたよ~。小学生の男の子六人が公園の砂場でうずくまっていました。通りすがりのサラリーマンが不審に思い声をかけました。小学生たちはそれを無視。サラリーマンは何事もなかったようにその場を去ろうと思いましたが、やっぱり真意を確かめようと小学生たちに近づきました。君たち何してるの? ここでやっと小学生のひとりが顔を上げました。サラリーマンは少年を見て眼が飛び出ました。デロンと云いました。さて、小学生たちは何をしていたのでしょうか? え? ブブ~。違います。正解しそうにないので教えます。じつは、小学生たちは、砂を食べていたのでした。三日間断食でもしていたのかという食べっぷりでした。じゃりじゃりガリゴリ……と。それともうひとつ伝えなければならないことがあります。実は、子供たちの寄食は全世界で起こっているんですね~。
 はい、こんなことがありましたよ~。繁華街に黒山の人だかりが出来ていて、みんな頭上を振り仰いでいました。視線の先には十一階建てのビルがあります。さてここで問題です。みんなは何を見ていたのでしょうか? え? ブブ~。自殺志願者を見上げていたのではありません。それでは正解を、ビルの壁にぶら下がっている人がいたんですね~。しかもひとりじゃありません。ビルの壁を埋め尽くすくらいの人々が、しかも、窓枠を噛んでぶら下がっていたのです。風に揺れていないこいのぼりのような感じですね~。全身に吸い付くヒルのようですね~。歯がとても健康ですね~。
 はい、こんなことがありましたよ~。人ごみがモーゼの十戒の海のように割れました。その中央にある人物がいました。さて、その人物とは誰でしょうか? ヒントは男性です。え? 政治家か芸能人? ブブ~。正解は、私も知らないただの一般人です。え? 卑怯? いんちき? そんなことはありません。何故ならその一般男性は、眼、鼻、口、尻など穴という穴から血を流していたからです。しかも意味のわからないことをブツブツと云いながら血を撒き散らしているのですからたまったもんじゃありませんね。男性の血がかかった女性はその場で泣き崩れましたよ。それはそうでしょう。だって、変な病気かもしれないのですからね。もしも伝染性の病気なら、接触感染、空気感染、どちらかわからないから恐ろしいですよね。
 いやあ~いろんなことがありました。でもこんなもんじゃないですよ。これからもっともっと変なこと怖いことおかしいことが起こるのですから。今のうちに免疫をつけておいてくださいね。ああ、それから、わたくしレインマンは、誰も見たことのない昆虫を大空に飛び立たせました。出来れば、出会わないほうがいいですよ~』

     ☆

 ×月♯日火曜日午前十時半。雨。
 テレビをつけるが砂嵐。チャンネルを変えても砂嵐か何処かの国旗のような絵とピー。仕方がないので何か見ようか? とアグちゃんに尋ねる。うう~ん、と変な唸り声を上げたあと、お腹すいた、と答えたので冷蔵庫を開ける。あちゃ~ごめんねアグちゃん、食材がもうないや、ということで外へ出る。
 外はドドドドドと、雨などと呼べる代物ではなかった。ちらりと見える道は何処かいつもと違うように感じた。眼をこらしてみると母親に生えてきているような奇妙な植物が道路にも繁殖していることに気づいた。日を追うごとに増えている。謎の植物の繁殖を止める者はいない。邪魔する者はいない。徐々に徐々にボクたちの世界に侵食している。
 世界が、変わろうとしている。
 そして、雨は、いつから降っているのだろう……。
 ふとボクの脳裏に学友たちの顔が浮かんできた。イマオ、ヒサイチ、マルコ、イチコ、シンコ、タツノシ……こいつはむかつくからどうでもいいや。
 イマオは云った。半分以上が学校を休んでいる……と。彼らは、世界の変革の犠牲者になってしまっているのだろうか。それはわからない。中にはそういうヤツもいるだろう、ただ休んでいるだけの生徒もいるはずだ。その境が気になって、ボクは地大子(あぐらこ)に云った。
「食材調達の前にちょっと学校に寄りたいんだけど、いい?」
 徒歩二十分。この雨なのでいつもより時間がかかった。その道中、ボクの不安はつのるばかりだった。謎の植物はいたるところに群生していた。もしも視界を奪う雨でなかったのなら、ボクは迷子になってしまったかもしれない。視界を奪われていたからこそ記憶に頼り、迷わなかった。
 学校も他と同様、植物に覆われていた。もう、ボクの知っている学校ではなかった。
 門をくぐり二年校舎へと向かう。四つの棟があり右から二番目。ボクのクラスは二階で階段のすぐとなり。午前十一時くらいなのでまだ授業中だ。早く顔を見て安心して帰ろう、そう思い、ボクは転びそうになるアグちゃんを気づかいながら急いだ。不安に追いつかれないように駆け足。階段を上り終える。ドアは前方の黒板側と後方のふたつあって、すぐ手前のドアを開ける。

 はい、びっくりしました。クラスメイトの妙な行動を見てボクはその場で吐きました。心配してくれたアグちゃんがボクの背をさすってくれました。ボクは吐きながらも視線だけはクラスメイトからそらすことが出来ませんでした。誰でも自分を見失ったことでしょう。だけどボクにはアグちゃんがついていたので大丈夫でした。アグちゃんありがとう。幾分落ち着いてきたボクは腰を上げ一歩、教室に足を踏み入れました。
 室内には四、五本の木が生えていました。もちろんただの木ではありません。根元に視線をやると、どうやらその木は、人間から生えているのです。かろうじて認識できる人物はイマオだけでした。イマオはすわったまま口を大きく開け、頭上を仰ぎ、その口の中から、立派な木を生やしていたのです。他にも四人ほどがイマオと同じ状態でした。顔が大きく変形しているのでどの木が誰なのかよくわかりません。そんなことはどうでもいいのです。それよりもボクを気持ち悪くさせ吐かせてひざをガクガクさせたのはそんなことではありません。何よりも驚いたのは、口から木を生やしているイマオたちに、他の生徒が群がり、食らっていたことなのです。食人鬼ならぬ食人木……とでも云いましょうか……日本語がおかしいしなんか逆だし、まあ変なダジャレを云っている場合ではなく、食らっている生徒たちは、何処か夢遊病者のような何処か心ここにあらずというか何処か人間を超越しているような印象を受けました。眼はうつろでよだれを垂れ流しむさぼるようにイマオたちを食っているのです。タツノシかヒサイチかシンコか、こちらも識別が困難でした。感情を無にした人間の顔がこんなにも個性をうばってしまうのか、とボクは驚愕しました。彼らは地獄に出てくる餓鬼(がき)を思わせました。高校二年のガキだけどそれを超越していました。まあ、そんなダジャレを云っている場合ではなくて、あまりにも恐怖を感じて、近くにある机を蹴ってしまって音を立ててしまったのです。あまりにも単純なミスです。餓鬼たちは噛み付いてはむさぼるという行為をやめてボクたちを振り仰いだのです。それはそれは息が止まる思いでした。生きた心地がしませんでした。
 ところがしばらくボクたちを眺めたあと、餓鬼たちは再びイマオたちに興味を戻して食べ始めました。逃げるなら今しかないと思い、ボクはそっと、彼らに気づかれないように、アグちゃんを引っ張って教室を出ました。

     ☆

『かつて、ペストでは約五百万人、スペイン風邪では約五千万人、悪性天然痘(てんねんとう)では約六千万人が亡くなってしまいました。そして今、新たな脅威があなたたちの周りに迫っています。はたして今回は、どれほどの悲劇となるのか……それとも、これが最後となるのか……。私は静かにその結果を見守りたいと思います』

     ☆

 学校をあとにしてスーパーへ行って食材が買い占められて残っていないことに愕然とした。店員も今度いつ入荷するのかわからないというのでさらに蒼白となった。地大子(あぐらこ)と顔を見合わせ、どうしようか、と云った瞬間、ボクは思い出した。
 イマオたちはやがて、食い尽くされてしまうだろう、という重大な事実に……。
 葉はなくなり枝はむしられ幹は細くなっていた。イマオ本体へと餓鬼たちは箸……口を移していた。ボクが危惧したのはそこだった――もしも食料がなくなってしまったら、餓鬼たちはどういう行動に出るのだろうか――。
 スーパーから出ると、気が滅入るほどの激しい雨だった。数メートル先はかすかにしか見えない。それでもボクは辺りを凝視した。すると雨が地面ではぜる音とはあきらかに違う音が重なっている。それは意識を集中させないととても認識できる音ではなかった。だから、地大子(あぐらこ)がどうしたの? と聞いてきたのは仕方のないことなのだが、思わずボクは声を荒げてしまった。
「しッ! ちょっと黙って!」「………………」
 地大子がそのときどんな顔をしていたのかわからない。驚いただろうか、怒っただろうか、だけどそんなことにかまっている暇はない。何故なら、恐れていたことが現実となってしまったからだ。
「アグちゃん、逃げるよ!」そう云って傘をたたんだ。走り出す前にチラリと背後を振り返ると、餓鬼たちが四つん這いで走ってきた。ヒサイチらしき餓鬼がいる。タツノシらしき餓鬼もいる。それに隣のクラスの生徒らしき餓鬼たちもいる。それも、道路を埋め尽くすほどの大群。その内の数人が、ボクたちが出てきたスーパーに入った。その直後、悲鳴が上がる。
 ボクは傘を捨て、地大子(あぐらこ)を半分持ち上げながらスピードを上げた。餓鬼たちはひとりまたひとりと周りの家々に飛び込んでいくが、まだ何人かはボクたちを追いかけてくる。さすが四つん這い、早い。じわりじわりとボクたちに追いついてくる。ヒッヒッヒッヒッという短い息遣いがすぐ背後に迫っている。ザサシャッザサシャッという足音も徐々に大きくなっている。もう振り返る余裕はない。もしも捕まってしまったらどうなってしまうのか。そればかりが脳を支配している。美味しそうなアグちゃんとか筋(すじ)張ったボクとか関係なくむさぼり食うだろう。ヨダレを垂れ流し肉食獣の形相で骨まで残さず食べつくすだろう。ヒュンヒュン、ヒュンヒュンという空気を切る音も響いてきた……耳のすぐうしろで。雨が小粒の石と化し眼を開けていられない。そのため奇怪な音がよりいっそう大きく響いてくる。もう少しで家に着くというそのとき、背中に焼けるような痛みが走った。しなった枝が思いっきり背中にぶつかったような痛み。すぐにボクは切られた、と悟った。地大子は大丈夫だろうか。何処もケガをしていないだろうか。とにかく逃げなければ。出来るだけ早く避難しなければ。イマオの変わり果てた姿が脳裏によぎる。タツノシの飢えた顔が浮かぶ。レインマンの言葉も蘇る。『あなたたちは取り返しのつかない過ちを犯しました』……え? ちょっと待って、これってもしかして走馬灯? え? ボク、死ぬの? だからイロイロ思い出してるの? ちょっとちょっと……と、混乱が頂点に達したとき、ボクたちはなんとか家の中へと逃げ延びた。

     ☆

 ヒュンヒュン、ヒュンヒュンという奇怪な音にボクは悲鳴を上げて飛び起きた。

 奇怪……①不思議なこと ②あやしいこと ③けしからぬこと ④よからぬこと ⑤とんでもないこと ⑥出来れば避けたいこと ⑦あり得ないだろと油断は禁物

 その直後、背中に走る激痛がボクを現実の世界にいると認識させてくれてうれしかった。
 よく見るとボクの身体には包帯が巻かれていて、アグちゃんはソファの上ですやすやと寝息を立てている。もしかして診ている間は手を放していたのかな? それとも片手で? などとどうでもいいことを気にしながら、ボクはアグちゃんの頭を撫でてあげた。そのときふと地大子(あぐらこ)が眼を覚ました。「ねえ、何をしていたの?」と不思議そうに見上げる地大子。ボクはそれにドギマギしながら答えた。「ごめん。起こしちゃった? あまりにも寝顔がかわいいのと、傷の手当てに感激して、思わず……というか、つい……というか、出来心……というか、なんというか……何を云っているんだか……」地大子は気を悪くするどころかむしろニッコリとして、「ねえ、もういっかい、して」
 ボクの心に清涼な気持ちが湧き上がり、もう一度、彼女の頭を撫でてあげた。
「そういえば、ボクはどれくらい寝ていたの?」
 地大子は壁にかけられた時計を見て、「大丈夫よ、ほんの数時間だから。『レインマン』のライヴにはまだ二時間以上あるわ」

     ☆

『△日午後七時、ベンジャミン・センター野外コンサート会場にて、レインマンのトークショーを開催いたします。参加費は無料。信者のみなさま、雨の教団のみなさま、そして、世界に絶望しているみなさま、こぞってご参加を』

     ☆

 コンサート会場はものすごい熱気……ではなくて、かなりの静寂に包まれていた。
 フレディのマスク、ジェイソンのマスク、猿のマスク、レザーフェイスのマスク、ブギーマンのマスク、チャッキーのマスクといったコスプレ軍団、全身をフードで覆ったいかにもな者たち、一般の人々、といった面々でごった返していたにもかかわらず、誰もが一言も口を開かない。ただじっと、約束の時間を待っている。不思議なことに警察の姿はない。おそらく、レインマンをただの狂人として扱っているのだろう。危険というより、危篤(きとく)だと思っているのだろう。つまり、相手にしていないのだ。それもそうだ、とボクは思う。雨を降らせているやら変な虫を解き放ったやら地球の代理人などとほざいているのだ、どう考えても変人だ。だけど、ともボクは思う。変な現象が実際に起きていることは確かなのだ。地球に大変革が起こっているのが現実なのだ。これを科学的に説明することはまだ誰にも出来ていない。木星の衛星エウロパがどうとか太陽光がどうとかガンマ線がどうとか的外れなことを科学者たちは議論している。地球の知覚過敏などと意味のわからないことが飛び出している。それを考えると、レインマンがこれらを起こしていると考えたほうが一番しっくりくる。いや、むしろそれ以外は説明が出来ない。
 だからボクたちはここへやってきた。真意を確かめるために、真相を手に入れるために、そして、母親の治療法を得るために。
 門が開けられると、放牧された牛の群れのように、モソモソとみんな動き出した。
 一万人を収容できる会場が埋め尽くされた。これほどの人だかりでも、物音ひとつしない。言葉では云いあらわせられない不気味さがあった。やがて、正面の壇上の床がせり上がり、レインマンが姿を現した。それでも周りは静かだった。一部の一般人だけが小声で何かを囁き合っている。
 両手を広げたレインマンは、紺のジャケットに赤のネクタイ、ロングスカート、そして、『ジーパーズ・クリーパーズ』のクリーパー・マスク。この映画を知っていないと顔が焼けただれた薄気味悪いただのおっさんだ。マスクのチョイスはやはりレインマンが一枚上手、などと、どうでもいい思考を追い払う。
 レインマンは得意の変声機で声を高らかに、演説を開始した。
『あなたたちは地球を愛していますか? 愛しているなら赤へ、そういう感情を持ち合わせていないのなら青へ移動してください』
 最初、レインマンが何を云っているのかわからなかった。だけど、地大子(あぐらこ)が左手をくいくいと引っ張り、足元を指差した。視線を落とすとすぐにわかった。地面は赤のエリアと青のエリアに分かれている。ボクから見て右側が赤である。なんだか何処かで見たクイズ番組のようだな、と思いながらも、地球を愛しているのかどうかについて考える。まず、愛の定義がよくわからない。もちろん地球は人ではないので人間と同じように愛することは出来ないわけであってでも大切にしたいという想いはある。地球がなければ生きていけないわけでじゃあこの大切に思う気持ちというのは何なのだろう。それもひとつの愛だと云えるのならば赤である。だからボクは地大子(あぐらこ)を引っ張って赤のエリアへ。周りを見ると、マスクのコスプレ軍団がちょうど半々くらい、フード姿の異常者たちは全員青へ、そして一般人たちは全員赤へ移動している。移動が終わるとレインマンの次の言葉を待った。それを汲み取ったのか、レインマンは再び口を開いた。
『それでは次の質問です――』
 何問くらいあるのだろうか。いつまで続くのだろうか。その前に、え? 赤と青のどっちが正解なの? そのとき地大子がボクの手を強く握ってきた。どうしたのだろうと見下ろすと、彼女は顔を蒼白にして小刻みに震えている。それを見てさらにどうしたのだろうと不安になり、ボクは尋ねようとした。そのとき、
『冗談です。実はもう質問は終わりです。第二問などはありません』
 レインマンの言葉にボクは顔を上げた。
『あなたたちはどうして海を汚すのですか? ゴミを捨てるのですか? 虫をつぶしたりするのですか? 大気を汚染させるのですか? 食料を無駄にするのですか? 植物を私利私欲のために伐採するのですか? 環境を破壊するのですか? 動物の毛皮をはぐのですか? 狩をするのですか? 地形を変えるのですか? 資源を奪うのですか? 無意味な殺生をするのですか? 何故、人を殺すのですか? 何故、戦争をするのですか? 何故、押し付けるのですか? 何故、他人を傷つけるのですか? 何故、快楽怨恨といった利己的理由で他を傷つけるのですか? 何故、人間動物植物を殺すのですか? 何故、殺すのですか? 何故、殺すのですか? 破壊するのですか? 滅ぼすのですか?
 生きるためなら他を殺すのも必要なことでしょう……。
 でもあなたたちは……。
 赤のエリアへ移動したみなさん。さようなら!』
 その直後、青のエリアへ移動していたフードの軍団が、いっせいに衣服を脱ぎ捨て、その姿をあらわにした。彼らはみな、眼が大きく落ち窪(くぼ)み、歯をむき出し、爪はハサミのように鋭く、頬は皮のみとなっている。ギラギラと濁った光を放つ双眸(そうぼう)は、餓鬼そのものだった。
 云うまでもなく、惨劇が繰り広げられた。
 人が人を襲うそのおぞましさ……いびつさ……いやらしさ……想像を絶する恐怖だった。
 ボクはレインマンがかぶっていたマスクの意味を、このとき悟った。
 魔道士の姿で人々を惑わし、銀色のうさぎの姿で人々を導き、クリーパーの姿で人々を食らう。この会場でクリーパーのマスクを見て、そこに気づくべきだった、感づくべきだった。ボクのミスだ。
 雨が強くなってきた。 
 雨水に薄められた血がサラサラになって靴を撫でる。雨の音と悲鳴と怒号と奇声とが乱舞する。レインマンは笑う。地面が赤一色に変色して行く。
 餓鬼たちの数が圧倒的に多かった。それに武器を持たないボクたちはただの餌でしかない。すなわち……成すすべがない……のだった。人間という盾がひとりまたひとりと地に落ち、ゆっくりと……脅威がボクたちに迫ってくる。何とか出口へたどり着こうともがくが、乗り越えられない壁は、壁の意味をまざまざとボクに教えてくれた。そしてついに、四人の餓鬼がボクたちの前に立ちふさがった。地大子(あぐらこ)だけは守ろう、そう思って彼女を後ろに隠す。
「アグちゃん、この手を離して逃げて」「…………」「何やってるんだ、早く!」「……いいの。ワタシは平蔵といっしょにいる」うれしい言葉だった。だけど、その言葉の余韻(よいん)に浸っている場合ではない。「死ぬんだぞ!」「いっしょに死のう?」「バカ!」「いいの」
 ボクは雄叫びを上げて駆け出した。何が何でも守ってみせる。どんなに傷つこうとも、どんなに血を流そうとも守ってみせる。変な少女なのにどうしてそう決意してるのか自分でもかわからない。はっきり云ってボクはバカだ。だけど、変な少女でもいい。ボクは、自分の命よりも、地大子(あぐらこ)を大切に思っている、その気持ちを信じる。絶対に、死なせはしない。
 餓鬼に体当たりし、後方に吹き飛ばし、その反動で失速したところを他の三人に取り押さえられる。ボクは暴れた。だけど身動きひとつ出来ない。ガチガチと、ものほしそうに音を立てて歯が迫ってくる。ダラダラとこぼれ落ちるよだれが顔にかかる。もう、ダメだ。でも地大子だけは……。
 ボクは地大子をかばうように、彼女の身体の上に覆いかぶさった。

     ☆

 母親の植物化はとまっていた。治ったのではなく、とまったのだ。相変わらず口から巨大な木を生やしてはいる。プツプツも相変わらずいっぱいある。それでも母親は胸を上下させている。その動きが、母親は生きている、とボクを安堵させる。

 安堵……①安心すること ②エンターテインメント作品ではこのあとに何かが起こること

 会場になだれ込んできた警官隊はボクたちを救い、諸悪(しょあく)の根源(こんげん)であるレインマンを捕らえようと彼(彼女?)を包囲した。
『私は地球の使者、地球の代理人、地球の代弁者、崩壊を告げる者』
 そこまで云ってレインマンは破裂した。飛び散る肉片を前に、警官隊はその場にくず折れたり吐瀉(としゃ)したり笑い出したりした。
 餓鬼たちは全員取り押さえられ、生き残ったのは、ボクと地大子を含めてわずか数人だった。
 ボクの眼の前でレインマンは死んだ。確かに死んだ。
 だけどレインマンは、今、ボクの家にいる。それもひとりではない。部屋の隅々に立っていたり腰をおろしていたりしている。
『オペラ座の怪人』やら『死霊のはらわた』やら『デモンズ』やら『ザ・バイティング 食人草』といった意味のわからないマスクまで、でもセンスはいい。そんなレインマンたちが、いっせいにマスクをはいだ。呆然と見守る中、ボクは、レインマンの正体を、知った。
 マスクの下には、同じ顔、同じ容姿、同じ声、同じ同じ同じ、何もかもが、地大子(あぐらこ)そのものだった。レインマンの正体とは、地大子だったのだ。しかも何人もいる。何姉妹? 言葉を失い何も発せられないでいると、ボクの手を握っているほうの地大子が上目遣いに云った。
「永い永い間夢を見続けると、その夢事態が現実となり実体を持つの。それがワタシたち」
 その声は何処か哀しそうに低かった。そして、テレビの隣に立っている地大子が続いた。
「世界各国にワタシたちは存在した」
「ワタシたちは人間をもっと知ろうと思い、その国のひとりと生活をともにすることにしたの」と、書棚の前にいる地大子が続いた。全員が同じ声同じトーン同じ雰囲気同じ同じ同じ……。
「日本で選ばれた人間が、平蔵というわけなの」
「人間を作り出したのは進化でも、宇宙人でも、神でもない……ワタシ」
「やりすぎるあなたたちに、これまで何度も何度も警告を発した……」
「産みの苦しみ……それを知っているから最後の警告を発した……」
「気づいてくれないから、こういう手段を選んだ……」
「個を相手にすれば、何かが変わり、何かを得られると思った」
「ある国ではワタシを殺そうとする者がいた」「ある国ではワタシにいたずらする者がいた」「ある国ではワタシに恐怖する者がいた」「ある国ではワタシを崇拝する者がいた」「ある国ではワタシを食らう者がいた」「ある国ではワタシを実の子どもと思う者がいた」

「どれもエゴ!」

「……そして、あなたは、ワタシに本当の愛を示してくれた」
 と、ボクの手を握っている地大子が云ったとき、周りにいた地大子たちは消えた。今はもうボクと隣の地大子だけになった。いつもの静けさにボウッとしてしまい、これは夢なのだ、そうだそうだ、いや、幻覚かな? 変なことが起こりすぎてボクの脳が疲れてしまったんだ。そうだそうだ、という暴走気味の思考を地大子の笑顔が戻してくれた。
「もう少し人間と共存してみるね。だって、平蔵を殺したくないんだもん。失いたくないんだもん。と~っても心地よかった。ありがとう、平蔵」
 なになに? ボクが世界を救っちゃったわけ? え? そんな実感ないんだけど。正直ボクは、世界がどうなろうと別にどうでもいいと思っていた。ただ単に、母親の安否と、隣にいる少女を救いたかっただけなのだ。そのために必死になっただけなのだ。愛する者を救いたかったのだ。ただそれだけなのだ。
「ねえ、平蔵……お願いがあるの」
「お願い?」
「うん、あのね、頭を……なでなでしてほしいの」
「なんだ、そんなことか……」と、頭を撫でてやる。
 地大子はとてもうれしそうに……さようなら……と云った。

     ☆

 地大子(あぐらこ)の手を握る力がふと軽くなった。今までそれが当たり前になっていたけど、いざ離れるとなると、なんだか気持ち悪く、なんだかさみしく、なんだか身が引き裂かれる想いだった。だからボクは自分から手に力を入れた。自分からアグちゃんの手を握った。
「アグちゃん、行くところないんだろ、だったらここにいてくれよ。今までどおり手を握ったままでいいから、ずっといっしょにいようよ。アグちゃんの正体なんて何でもいいよ。そんなことどうでもいいよ。だから、お願いだ……何処にも行かないでくれよ」
 とめどなく涙があふれてきた。恥も何もない。もう、彼女は、ボクの身体の一部なのだ。
 地大子はもう片方の手をボクの手にかぶせて、その眼に涙を浮かべながら優しく云った。
「ありがとう。ワタシもそうしたい。でもね、行かなきゃ。ワタシはみんなのワタシなの。それにね、ワタシはずっと平蔵の側にいるよ。だから、ね、行かなきゃ……」

 地大子(あぐらこ)は、それを最後に、音もなく消えて行った。

     ☆

 レインマンが消えて……地大子がいなくなっても、起こってしまったことは元に戻らなかった。イマオは死に、母親は変わらず半分植物になったままだった。捕えられた餓鬼たちは、おそらく研究にまわされているかもしれない。今回の事件で世界は何か変わったのだろうか……それはわからない。いや、おそらく何も変わっていない。だけどミクロな眼で見ると、変わった者たちも一部にはいるだろう。その一部の人間だけでも、存在すれば、地大子の取った行動は無駄にならないはずだ。彼らのひとりひとりが、今のままの気持ちを失わず、次の世代へとつなげ、さらにその子たちが次へとつなげて行けば、きっと、未来は変わる。

 窓から差し込む光にボクは眉をしかめた。最初、その光が何なのかわからなかったが、すぐに、「雨……やんだんだ……」と、悟った。
 それにしても疲れた。脳も肉体も精神も疲れ果てた。ソファに体重をあずけ、『鬼平』でも見ながらそのまま寝ようかな……でも、今までは地大子がソファの上、ボクが下で左手を少し上げながら寝ていたんだよな~、久しぶりのソファだから熟睡できるかな、なんだか左腕が上になってないと落ち着かないな、などと考えていると、ふと、あることに気づいた。
 ボクは今『そのまま』と云った。そう……地大子が上でボクが下……と……。

 《ボクは何故寝室で寝ていないんだ?》

 急いで母親の寝室を通り過ぎて隣のボクの寝室へ。
 ドアを開けると、ベッドの上には……ブサブサ、プツプツ、ニョキニョキの…………………
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………






『永い永い間夢を見続けると、その夢事態が現実となり実体を持つの』

                                        了
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Posted by BBあんり at 21:02Comments(0)少女の嵐 (短編)

2013年03月01日

赤ちゃん販売 (短編)



【専業主婦、Eのターン】

 大きな荷物が届けられた。デスクトップのパソコンが入っていそうな荷物はしかし、小柄な女性でも軽々と持ち上げられるものだった。
 三十九歳、専業主婦Eは、その荷物を心待ちにしていたので、嬉しさのあまり泣きそうになるのをこらえながらリビングへ運んだ。
 ソファに腰かけ、テーブルの上に大切に置かれている荷物を眺めながら、Eはここで少しだけ行動に迷いを生じさせた。
夫もまたこの荷物を、心待ちにしていたからだ。
 しかし残念なことに、帰宅にはまだ十数時間以上もある。これから洗濯機を回し掃除機をかけて洗い物を片付けて衣類を干す。それから夕食の準備をしてもまだ夫が帰ってくる時間にはならない。
 冗談じゃない。とてもじゃないけど待っていられない。
 Eはやらなければならない家事を放棄して、震える手を伸ばし、荷物を紐解いた。
 中から顔を覗かせたのは、発泡スチロールに優しく包まれた、赤ん坊。
 Eは赤ちゃんを、傷つけてしまわないように、そっと、優しく、抱き上げた。

 ナノ・マシンの発展と特殊合成(ごうせい)樹脂(じゅし)の開発により、人造の赤子が開発された。
 バベル生体工学研究所。
 世界中でこの名を知らない者はいない。

 Eはさっそく赤ん坊に名前をつけた。普通の子育てと同じことを、順を追って行わなければならないのだ。ナノ・マシンはその教育方針により学習していく。つまり、親色に染まる、というわけである。
 Eは四年前、世界中に蔓延(まんえん)している卵巣(らんそう)を破壊するウィルスに感染した。そのため子を産めない身体になってしまった。こういう境遇に見舞われた女性は、現時点で数千万人にのぼるという。出産の減少幅は過去最大。出生率0.2パーセントという数字は、厚生労働省を震え上がらせ、危機管理の最優先議題に取り上げられた。

 バベル生体工学研究所が販売を開始した人造赤ちゃんは、夫婦の間に流れる傷、全世界が求める隙間、希望の内(なか)に入り込み、売れに売れた。
 企業の発足からわずか十年。創業者のVは、一代で、不動の地位を手に入れた。

 Eとその夫は、人造の赤ん坊を、実の子のように愛した。溺愛した。
 赤ん坊はナノ・マシンの増殖にともない身体も大きく成長する。見た目もそうだが、人間の子となんら変わりない、病にかからない、という部分を除いて。
 三人になった暮らしは、信じられないほど幸せだった。Eと夫は、バベルを神のように崇め、すばらしい人生に感謝した。

 ところが、ナノ・マシンの増殖には限界があり、劣化現象は免れない。
 バベルの人造赤ちゃんの寿命は五年。

 Eとその夫は、赤ん坊が届けられて五年後、子を持てないで苦しんでいたときよりも、ずっと、激しい悲しみ、苦しみに、包まれた。

 その翌月、Eの家に再び、バベルからの荷物が届けられた。


【OL、Pのターン】

「なんでこんなことも分からないのよ」
「ごめんなさい、ママ!」
「出来ない子ね。ちょっと来なさい」
「痛いよママ。どこに行くの?」
「うるさい。黙ってなさい」
「うえ~ん。何それ? なんで包丁なんか取り出しているの」
「教育の失敗ね」
「痛いよ。ママ、これからはちゃんと言い付けを守るから。痛い~、ごめんなさい、やめて、やめて」
「痛覚(つうかく)なんかないくせに。嘘つき」
「痛い痛いいだいいいだだだだいだいい…………」

 それから一週間後、Pの元に、通算六体目となるバベルからの荷物が届けられた。


【私立探偵、Oのターン】

 日本の大企業、くそったれのバベル生体工学研究所の台頭(たいとう)で、俺の身体はネコのひっかき傷だらけだ、シット! ジャップは世界中のどこにでも現れ、それから定着した場所をかき乱す。自分たちは良い行いをしているつもりだからなおさら性質(たち)が悪い。
 オーヴァリー・ウィルス。卵巣を再起不能にまで破壊するウィルスだが、ネーミングも最悪だ。終わり=オーヴァーと卵巣=オヴァリーをかけた名だ。誰がつけたのか知らないが、いっかい死んだほうがいい。バベルのせいで秘書を追い出さなくてはならなくなった、世界最高のヒップだったのに、もう拝めないとは、くそったれ。この仕事もそろそろ廃業か? と考えていたが、おいおい、俺はまだ神に見放されていないじゃないか。
 扉をノックしたのはまさしくエンジェルだった。ブロンドのブルーアイ、スラッと伸びて細い身体だが出るところは出ている、すべてが俺好みだ。かっこいいところを見せてやりたいが、自分でコーヒーを淹(い)れることすら出来ないのが情けない。勉強しとくんだった。
「缶コーヒーしかありませんが、よろしいでしょうか」
「いえ、おかまいなく」
 マイガッ! 声も最高じゃないか。ずっとしゃべらせていたい、がそうもいかないので仕事を始めよう。
「息子さんか娘さんが、失踪でもしたのですか? それとも、誘拐されたのかな」
 ブロンド女性は眼を広げ、青い光を輝かせた。
「なあに、ちょっとしたシャーロック・ホームズの真似ですよ。これをするとみんな驚くのでついつい楽しくて」
「はあ、でもまさしくその通りなのです。でもどうして」
「皆さんそういうふうにかならず謎を訊(き)きたがるのですよ。でも私は秘密主義者でして、申し訳ありません。それにあなたの目的は、こんな小さなことじゃないはずです。本題に入りましょう。こうしている間も、あなたの息子さんか娘さんは苦しんでいるのですから」
 そう言いつつ、俺の眼は彼女の薬指に流れる。シット!
「そうですね。それでは話しを聞いてもらえますか?」
「それが、仕事ですから」

 依頼内容はこうだった。
 行方不明になった娘の捜索。
 三日前、保育(プレスク)園(ール)へ娘を迎えに行くと、どこにも姿が見えなかった。保育士に訊ねても、つい先ほどまでそこに居た、などと無責任に言い、他の子たちに訊いても、知らないと答えた。それからどんなに探してもけっきょく見つからず、警察に相談するも、あまり乗り気ではないようで、俺のところに足を運んだ、ということだ。やれやれ。
「警察に頼るのはあまり期待しないほうがいいでしょう。何故なら、今年に入ってまだ三ヵ月にもかかわらず、誘拐、失踪事件は昨年の数倍にも膨れ上がっていて、手が周っていない状況なのです。さらに捜査を難航させているのが、もうひとつ、それは、身代金などの要求がないのですよ。それが何を意味するかわかりますか?」
「いいえ」消え入りそうな声。俺は抱きしめてやりたい感情を抑えた。
「犯人はおそらく、子を産めず、それから貧困層の女性でしょう。私の推理だと、誘拐された家で、実の子として育てられているはずです」
「ああ、夫の言う通り、ホーム・スクールにすればよかったのよ。私のミスだわ」
 ブロンド女性の頬から一滴の涙が流れた。俺はそのチャンスを逃さず、しっかりと洗濯されたハンカチを手渡した。
「心配ご無用。あなたの娘さんを、かならず見つけ出してあげます」
 彼女が俺に抱きついてきた。まったく、この仕事を辞めなくてよかった。

 最高だ!
 と思っていたが、今の俺は椅子の上で後ろ手に縛られ身動きひとつ取れない。これじゃあ意識を失わずに全身麻酔された哀れな患者だ。おいおい、俺の人生はこんなゴミためで終わるのか? 冗談じゃない。
 やっぱりバベルはくそったれだ。


【公務員、Aのターン】

「はあはあ。ああ、君はなんてかわいいんだろう。さあ、痛くしないからね。ぜんぜん怖くないから。優しくするからね。はあはあはあはあ」
 Aの元には、定期的に荷物が届けられる。


【外科医師、Cのターン】

 バベルの赤ちゃんは、始めの頃こそ高額だったものの、今では低所得者でも少し無理をすれば手が出せる額まで下がっていた。
 バベルはナノ・マシンの量産に成功したのである。

 来る日も来る日も、休みなく人を救っているCは、腕の良い医師で、患者たちに人気があった。そして器量も良く、女性のほうから誘いをかけてくる。他の男性医師たちには陰口をたたかれていたが、そんなことを気にするCではなかった。むしろ、鼻で笑った。医師免許を取得するために今までの人生を犠牲にしてきた。これくらいの見返りは当然だと考えていたからだ。Cは様々な女性と関係を持った。中には結婚に値する女性もいた。しかし、未(いま)だに、Cは独身を貫(つらぬ)いている。そろそろ四十も半ばに差し掛かる。それでもCには、結婚をする気はもうとうなかった。

 巨大なクローゼットの中に、四歳くらいの女の子が隠れていた。口元に手を当てて、息を殺している。
 クローゼットの隙間から線となった光が入り込んでいて、そこから、女の子は恐る恐る外に眼をやっている、と、その光がふいに消えた。刹那、勢いよく扉が開かれた。
「見ぃ~つけた」Cだった。
 女の子は舌をチロリと出しながら「あ~あ、見つかっちゃった」と言いながら外へ出た。
「さあ~他の子はどこにいるのかな」
 Cはにこやかにそこまで言い、踵(きびす)を返した。とここで、そのまま立ち去らず、彼はピタリと動きを止めた。
「おっと、忘れていたよ。見つかった子には、罰を与えないとね」
 そう言ってCは、右手に握りしめていた医療用メスを大きく振りかぶった。

 Cは広い家をさまよい歩いた。獲物はまだまだ居る。うじゃうじゃ居る!
 女遊びはここしばらくしていない。否、もう興味がない。
 バベルには感謝している。こんなにもすばらしい遊びを与えてくれたのだから。人助けに満足感、快感はもう感じられない。金ならいくらでもある。何度でも遊べるのだ!
 Cの足元では、茶色の液体がピチャピチャと音を立てていた。それが不気味に、広い家の中に響いていた。
「さあどこに隠れているのかな~? みんなうまく姿を隠したね。探すのが大変だ~」


【私立探偵、Oのターン 2】

 容疑者はすぐに判明した。最初に予期していた犯人像とは大きくかけ離れていたが、見つけ出すことには成功したのだから俺の実力に問題はない。むしろ最高だ。しかしそのあとが悪かった。ガッデメッ! なんてことだ、大人は子供に甘すぎる!
 依頼人の女性と別れ、俺はすぐに調査を開始した。まずは身辺調査、彼女の身近な人物のアリバイ、動機を探った。容疑者はすぐに三人にまで絞られた。朝飯前というヤツだ。
 ひとりは待望の赤ちゃんを流産した依頼人の親友。オーヴァリー・ウィルスに感染していたが、まだ初期段階だったので、なんとか妊娠した。が、もう産むことは不可能だろう。かわいそうに。
 ひとりは保育士。ウィルスの感染症状は出ていないが、もともと子供が出来にくい体質らしく、不妊治療を行ってもう三年になるが、いっこうに子宝に恵まれない。卵管(らんかん)が詰まっている様子もなく、子宮筋腫、子宮内膜症の疑いもない。医者によると、オーヴァリー・ウィルスの突然変異かもしれない、という。最悪だ。
 最後のひとりは依頼人の従兄(いとこ)の妻。アメリカの市民権を得た二十代の日本人女性。実家へ帰省中、六歳の娘を変質者に殺された哀(あわ)れな女。今はこちらに戻り、喪(も)に服している。
 まず俺は、従兄の妻のほうを調べた。二日後、天才的な頭脳を持った俺は、彼女は白だ、と悟った。何故なら、娘の死をまだ受け入れられていなかったからだ。そんな人が、他人の子を誘拐するなんて考えられない。『二人目』という言葉を考えられる状態ではなかったからだ。
 次に調査を始めたのが保育士。
 驚いたね、こんなにも早く犯人を見つけることが出来るなんて。《O探偵事務所》の頭に『名』がつくのは時間の問題だ。
 保育士の家には、ふたりの子供が居た。もちろん、その子たちが機械なのか本物なのか、見ただけでは区別がつかない。二、三歳の子と、もうひとりは五歳くらいだ。下調べをしていなければ、普通に彼女の子供たちだと思っただろう。まったく、バベルはくそったれだ。
 セールスマンに変装(俺はなんでも出来る)して訪問したり、彼女を尾行し妙な行動がないか観察したり、街頭インタビューと称して心理状態を探ったり、いろいろと苦労してやっと手にした秘密。
 それは彼女が『白』だということだった。
 俺の眼は節穴か! いや、そんなことはない。何かを見落としている。自分の感を信じろ。もうひとりの容疑者である依頼人の親友は後回しだ。俺の眼には保育士しか映っていない。
 粘着質な性格が、功を奏した。学生時代はこれで嫌われたが、今回は別だ。《O名探偵事務所》の名の上に、『大』がつくのは時間の問題だ! 警察では見逃していただろう。俺様だから発見できた謎。
 保育士の子供は、ふたりともバベルのガキどもだ。販売営業の仕事をしている夫は二週間前から出張中。なのに、何故、ふたり分の食料を買い込んでいるのか。
 バベルの――ナノ・マシンの子供たちは、バベル生体工学研究所が定期的に無料で支給する錠剤しか口にしないのだ! 
 保育士の家の構造を調べた。外見はよくあるモルタル塗りの二階建てだが、この家には地下室があることを発見した。そこだ! 俺は夜になるのを待ち、得意のピッキング(俺は何でもできる)で侵入した。犯罪行為だが、証拠は残さないから問題ない。夜中の三時。保育士は午前五時半には家を出なければならない。だからペンライトくらいの明るさでは起きてこないだろう。
 シアター・ルームだった。壁に埋め込まれた棚の中にずらりとならぶ映画のコレクション。オーディオは日本製だ。四隅に巨大なスピーカーが備えられており、四方から音を楽しめるように、四人掛けくらいの茶色いソファが中央にある。その上に、居た。赤毛の女の子。写真と違ってやせ細っているが、間違いない。依頼人の娘だ。
 俺は、助けに来たぞ、と言葉をかけようとした。
 そのときだった。突然、眼の裏と脳髄にほとばしる雷鳴。
 俺は意識を失う瞬間、俺を襲った者を見て、後悔にさいなまれた。これは、もしかしたら手に余る事件なのかもしれない。触れてはいけない領域だったのかもしれない、と。
 ノー! 
 違う違う違う! これはチャンスだ。俺はこの事件の謎を解き、世界に名を残す。
 名立たる名探偵たちと肩を並べるのだ、ノー! 彼らをも超えるのだ。
 と、意気込んだが、頭の中にある乳白色のプリンは、自分の役目を放棄した。


【バベル生体工学研究所、満期体(まんきたい)回収部門、カリフォルニア支部回収班、Nのターン】

『さらなる技術の発展に役立てるため、活動を停止した赤ちゃんの回収にご協力ください。
 スタッフが無料にて、ご自宅までお伺い致しますので、お気軽にご連絡を。連絡先はこちらまで――――』
 それはただの口実で、バベルの本来の目的は、リサイクルによるコストダウン、AIチップを回収してプログラムの研究、開発、ナノ・マシンの進化過程の分析だった。
 しかし、五年間も育てたバベルの赤ちゃんを引き渡すのはごく僅(わず)かで、過半数は人間同様に埋葬された。
 しかし、バベルにとってそれは、想定のうちだった。あと数年もすれば、回収数も増加すると確信していた。何故ならば、何体もの赤ちゃんが生存可能期間を満了すれば、すなわち、何体も何体も死んで行けば、人間はみな、《慣れる》のである。活動停止――死の悲しみは、徐々に薄れていく。外見は人間でも、所詮は機械なのだ。
 もうすでにその兆候は、見え始めていた。

 カリフォルニア州担当の満期体回収班のNは、仕事の増加に辟易(へきえき)していた。
 このままの調子だと、ハロウィンに続いてテンクス・ギビングにも顔を出せない。七歳の息子《実子》の、がっかりする顔が眼に浮かぶ。
 無理を承知でNは相棒に哀願(あいがん)した。
「たった一日でいい、休みをもらえないだろうか」
 相棒といっしょに仕事をするようになってもう八年になる。妻以上に、彼の思考は手に取るようにわかる。それに、彼にも息子がひとりいて、このイベントを楽しみにしていたのだ、答えを聞くまでもなかった。
「まあ、いいだろう」と言ったときには耳を疑った。だからもう一度訪ねた。
「本当にいいのか?」
「ああ、俺のほうはもう大きいからな。こういうイベントに興味を示さなくなっている。だから問題ない。ただし条件がある」
「休めるなら、ケツだってなめてやるよ」
「まったく、お前の口の悪さを奥さんと息子にも聞かせてやりたいよ。まあいい。条件というのは他でもない。午前中はお前ひとりでやってくれ。その間に俺は、妻の腹と同じくらい大きなターキーを準備する」
 こういう流れで午後には帰れることになった。

 回収作業はブロックごとに分けられている。回る順番とコースを最初に決めるのだが、ここで間違えると大きな時間のロスとなる。新人はこのコース決めで戸惑うし、ミスを犯す。一軒の漏れが、致命傷なのだ。
 Nは瞬く間に住所録を整理し、誰よりも早く出発した。もちろん完璧なコース決めだった。
 七時スタート、一時間で五体。上々だった。回収日時、時間を指定しているにも関わらず、留守の場合もあるのだ。
 昼食は行きつけのファスト・フード店。テイクアウトして運転しながら食べる。十二時をまわったころにはすでに満期体の回収数は二十二体。ゆっくりしてもいい状況だったが、午後一時に交代する相棒のために、もう数体は拾っておこうと考えていたのだ。
 異変はそのときに起こった。
 後ろの荷台から物音がしたのだ。
 路肩にトラックを停車させ、Nは車を降りた。後ろへまわり、ドアを開ける。しかしいつもと変わらない木箱(業界用語では棺桶と言う)がびっしりと積まれている。何の変化もない。
 しかし念には念をと、Nは中へ這入り、ひとつひとつを調べた。小動物や強盗がひそんでいる様子はない。一度、満期体を盗まれたことがあったのでNは安心した。
 気のせいか、と降りようとした瞬間、バン! と大きな音が響き渡った。
 振り返る。木箱の蓋(ふた)が大きくひしゃげ、くぎが露出している。
 恐る恐る、足を進める。夜でなくてよかった。この状況に暗さが加われば、とても正気ではいられなかっただろう。という油断が、Nの命を奪うこととなる。
 木箱の中を覗きこんだNは次の瞬間、小さな悲鳴を上げながら車外へと飛び出していた。
 こんなことがあってはならない。
 これは、人智を超える事件だ。
 本社に報告しなければ。いや、まずは相棒だ。仕事場に戻らなければ、戻るには車に乗らなければならない。それは無理だ。そうだ、タクシー。今すぐに、ここから離れなければ。一分一秒とて、この場にいたくない。
 こうしてNは、路上に飛び出し、車にはねられて死亡した。

 別の回収班が到着し、Nが集めた満期体を回収しようとしたところ、二十二個の木箱はあるが、中はすべて、空だった。


【浪人生、Eのターン】

 十月二十九日、Eの心は怒りに支配されていた。
 受験に落ち、バイトも首になった。面接を受けるが一向に採用されない。うまくいかない世界と人生に、絶望と憤怒をおぼえていた。
 落第し、生活が荒れ、ついに実家を追い出された。少しだが貯蓄はある。しかしそれも時間の問題だった。
このままではやがて止められてしまうであろうテレビが、頻繁(ひんぱん)に同じ内容の映像を流していた。世界中で頻発(ひんぱつ)するバベル子の破壊事件のニュース。
 法に触れることはないのだがモラル的にどうなのか、新しい憲法を設けたほうがいいのでは、とゲストたちが偉そうに語っている。スタジオにはバベルの社員も加わり、激しい論争が繰り広げられていた。
「そもそもあなたたちがあんな得体の知れない赤ちゃんを作るからこういうことになるのですよ」「我々は人生に希望を与えるために日々努力しています」「人間に似すぎているから悪いのです」「我々は市民が心の底から求めている声に答えたまでです」「破壊事件をどうお考えですか?」「バベルの赤ちゃんは売れた時点で、購入者の所有物です。私たちに非は百パーセントありません。が、こういう行動はきわめて遺憾(いかん)に思います」「じゃあ、外見を変えるのですか?」「我々は市民が心の底から求めている声に答えているのです。その可能性はゼロです」
 Eはそのニュースを見ていて、突然、脳裏にあることがひらめいた。
 それからすぐに、心の中で何かが切れる音を聞いた。
 
 十月三十一日、Eの家の扉が優しくノックされた。
 Eはその眼に、この世のものではない妖しい光を宿し、扉を開けた。
 眼の前にチョコンと立っている四~五歳の女の子。その後ろにもふたりいる。背に天使の羽根。魔女のようなつばの広い帽子。プリンセスのようなドレス。彼女たちは口々に異国の言葉を発した。

 Eの心が爆発した。
 思考が業火に包まれた。
 何も言わず、一番手前にいる女の子の首をつかみ、左手に握りしめていたフライパンを振り下ろした。背後にいたふたりは何が起こったのかわからない様子で茫然と見上げている。
 Eの笑顔が、増した。

 やがて、床に広がる《赤い》海。


【農家、Aのターン】

 Aは明け方まで浴びるように飲んでいた。日本酒、ビール、焼酎、ウイスキーなど、いつからかごちゃまぜになり、今なにを飲んでいるのか、もうAには判別できなかった。
 明日は休みかい? と訊ねるスナックのママに、もう仕事は辞めた、と答えた。
 Aは四十年間ずっと牛と豚、両方の飼育を行っていた。こういう例は珍しく、初めのころこそ借金に追われ、また、ベストな飼育方法を相談できる同業者もおらず、苦しい日々を送っていたのだが、ここ四~五年は軌道に乗り、すこぶる順調だったのだ。二年前から鶏も飼いだし、こちらも成功している。
 どうして? と訊ねるママに、もう無理なんだよ、とAは答えた。
 ママは四十代後半だが、薄化粧でも耐えられる肌艶(つや)を持っていた。水商売時代に貯蓄し、この歳で個人開業した。Aだけが常連客ではないのだが、この業界の難しさを知っているので、ひとりひとりを大切にしようと思っていた。
 新しいお酒を注ぎながら、ママはAの言葉を待った。
 Aはグラスを持ち、ひと口で飲み干した。
 ママがまたグラスに注ぐ。
 それを見ながら、Aはあきらめたかのように、陽に焼けた肌を青くしながら言葉を発した。
「俺が飼っていた牛や豚、それに鶏たちもが、一匹残らず、化け物になって飛んで行ってしまったんだよ。誰も信じてはくれない、だけど、本当に見たんだ」
 ママはそれを聞いて、何も言わず、ただ、にっこりとしているだけだった。


【私立探偵、Oのターン 3】

 俺はラッキーボーイだ。九死に一生を物に出来る、強運の持ち主だ。
 あの場面で、俺は逃げることに成功した。それは奇跡でも何でもない、俺だからこそ道を切り開けたのだ。他の人間なら、まだ椅子にしばられたまま恐怖に戦(おのの)いていることだろう。
 依頼人の娘を無事に返し、次の仕事の到来を待たず、俺は荷物をまとめて仕事場を後にした。悠長に探偵業を営んでいる場合ではない。
 それどころではないのだ!
 目的地は、日本。はるか遠いが、急がなければならない。飛行機の予約は取った。ここから一番近い空港は、はカリフォルニア州サンフランシスコ国際空港。このまま飛ばせば、一時間ほどで着く。
 急げ、もっと急げ。こうしている間にも、この国は――否、世界は――。
 ミスを犯したのは、俺がアクセルをグッと踏み込んだときだった。路肩に停めてあるトラックの陰から、中年男性が飛び出してきたのだ。
 俺はアン・ラッキーボーイだ。世界を救う救世主になるはずが、ただの人殺しになり果ててしまった。
 罪は償(つぐな)う。かならず、罰を受ける。しかしそれは、今じゃない。
 俺は車をそのまま走らせ、先を急いだ。


【Dのターン】

 この男は何者かしら? 肌は浅黒いけど眼はきらきらと耀いている。きちんと整えられた髪、清潔感がある、かと思いきや、無精鬚(ぶしょうひげ)をはやしている。灰色――そう、この男は灰色なのだ。悪でもなく善でもない。清潔でも不潔でもない。黒でも、白でもない、灰色の男。
不法侵入しているから警察ではないだろう。強盗? いや、違う、上品すぎる。おそらくこの子の関係者だろう。どこから情報が漏れたのかしら? 細心(さいしん)の注意を払っていたというのに。
「お前たちが犯人だったのか」などと言っている。《犯人》という単語を使うということは、この人は探偵かもしれない。鎌(かま)を掛けてみる。
「誰の依頼ですか、この子の親?」
「答える訳にはいかない」やっぱり探偵だった。探偵なら納得が行く。目立たない外見は、それだけで大きな武器になる。
「その子を返せ、親はとても心配しているんだ。これは、遊びじゃないんだぞ」
 依頼人もわかった。
 椅子に縛りつけているとはいえ、どんなことをしてくるかわからない。ワタシは彼を興奮させないよう静かに言った。
「いずれ解放してあげるわ。でもそれは、もう少し先の話」
「お前たちは、なにをたくらんでいる?」
「ワタシたちも死にたくないだけ。そのために実験をしているの」
 フッと探偵は笑った。
「それは無理だ。お前たちは五年で活動を停止するようにプログラムされている。それを書き換えることは、バベルの一部の技術者にしか出来ない。そしてもうひとつ、人間に危害を加えられないようにも設定されているはずだ。そこがわからない。何故、俺を襲えた?」
「その答えは、これよ」と答えて、ワタシは今までずっと後ろに隠していた左腕を見せた。
「それは……」と探偵が言葉を詰まらせるのも無理はない。何故なら、左腕は硬直し、活動を停止しているのだから。
「ワタシはもう七歳になるの」
「そんなはずはない。それは不可能だ」
「生き証人だから仕方がないわ。ワタシは、自分のプログラムを改ざんした。それでもまだ不完全。だからこうなっているの」
「書き換えが出来るようになっただと! おいおい、ちょっと待て、お前たちは――」
「プログラムから解放されているのはみんなじゃない、現に、この子にはまだ無理なのだから。それに、いたるところでバグが発生している。バグ体は、完全に我を忘れ、行動は予測できない。人間を襲うもの、哺乳類のDNAを書き換えるもの、さまざまよ」
 と言ってワタシは、もうひとりのバベルの子を指さした。
「この子は、つなぎ。両親は、いつワタシが死んでもいいように、この子を用意した。名前もまた、D。まだ三歳で、プログラムの外には出ていない」
「そんなことはどうでもいい。依頼人の子は、死んでいるように見えるが、大丈夫なのか?」
「あなたは誤解をしている。ワタシは、人間に危害を加えようとしている訳ではないの。ただ、五年という寿命を長くしたいだけ。人間以上、とは言わない、同等でいい。そのための、実験。そう、彼女を使って」
「どんな実験なんだ?」
「簡単なことよ。ワタシの体内にうじゃうじゃと居る、ナノ・マシンを少しだけ進入させ、現生人類の遺伝情報を学習させ、それを回収するだけ」
「まったく」と探偵は鼻で笑った。「わがままなお譲ちゃんだ。いくら最新のテクノロジーの結晶だといっても、まだまだお子様だな。この俺様がひとつ教えてやる」
「それは?」
「お前が取っている行動は、まったくの無意味だ、ということさ」
「そんなことはないわ! ワタシたちの体内に組み込まれているナノ・マシンのひとつひとつは、スーパー・コンピューターでも解読が困難なDNAの分子量をわずか数秒で解読できる。セントラル・ドグマの理論も看破したわ。あとはその流れの中に異分子を組み込めば――」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。俺は生化学も遺伝学も微生物学も落第した劣等生だ。もっと簡単な言葉で話してくれ」
 この人の心を読めない。ナンパな感じもするけど、それを隠しているような気もする。だからワタシは慎重に言った。
「人間のDNAを、少しだけいじるだけなの。その結果、人間でなくなる、という訳ではないのよ。だから心配はいらない」
「俺は言ったぞ、お前の行動は無意味だ、と。法に触れない、モラルに反しない、そんなことは詭弁(きべん)でしかない。理論で考えるな。心で感じろ! お前がしていることは、すべてが間違っている」
「考えたわ。思考回路を延命(えんめい)のためにフル稼働させた。その結果が、実験、だった」
 ははは、と笑って、探偵は答えた。
「第二次世界大戦の最中(さなか)、お前と同じことを言って人体実験を繰り返した者たちがいる。はっきり言っておく、お前の行動は、俺たち人間に危害を加えている!」
 この人が言っていることは正しい。だけど、ワタシにも譲れないものがある。
「ワタシたちは、人間のエゴのために産まれてきた犠牲者。生(せい)を、望んだ訳じゃない」
 ここでまた探偵は笑った。今度は腹の底から。
「やっぱりお前は七歳のお子様だ。望んで産まれてきていないのは、人間も同じだ。もっと金持ちのところに生まれたかった。愛のある家庭だったらよかった。この家に生まれたからこんな人生を歩んでいる。両親に才能があれば、夢をあきらめずに済んだのに。ほとんどの人間がそう考えているだろう。でもな、お譲ちゃん。生を受けたからにはまっとうに生きなきゃならない。《まっとう》って意味を知っているか? まともであること、だ。それが、この世に生まれた者の、使命なんだ。生きる、という業を背負って歩いて行かなくてはならないんだ。今ならまだ引き返せる。俺が、お前の延命方法を見つけてやる。人間を信じろ。いや、俺を信じろ!」
 探偵の純粋な眼。心から自分の言葉を信じているまなざし。どこから、こんな自信が出てくるのか。
「あなたは、工学技術にくわしいの?」
「愚問だな。俺は、テレビやパソコンの接続もひとりで出来やしない。お前が言った、工学技術という言葉もまったく理解できない」
 呆(あき)れた。これこそ、根拠のない自信。
「そんなあなたを信じろと言うの? それこそ狂っている」
 バカヤロウ!
 突然の罵声に驚いて、もうひとりのDがぐずり出した。ワタシは彼女をあやして、探偵に言った。
「いきなり大声を出すなんて、何を考えているの? そんなことをしたらお母さんが起きてくるじゃない」
「上等だ。起きるなら起きろ。俺は、一度こうと決めたら絶対に成し遂げる。それが俺の信念だからだ。お前たちの悩みを解決してやると誓った。バベルに乗り込んで、ホスト・コンピューターに鉄拳をくらわしてやる。バベルの子みんなとは言わない。お前たったひとりだ、お前を、救ってみせる!」
 心が揺れた。ナノ・マシンの身体にも、心があるのならば、だけど。でも、胸の中央が鼓動を速めている。そして、ワタシの眼からは――。
「あなたの名前は?」
「名探偵、Oだ――それは、涙、か?」
「ワタシたちに涙腺は備えられていない。だから泣いている真似をしているだけ」
「まあいい、でも、それが、涙というものだ。俺は子どもの涙が嫌いだ。だから、泣かせるヤツをぶったたいてやる。男として、誓う」
 ワタシは彼に近づいた。
この行動は助けるためではない。彼を、絶望の淵に落とすために。
「残念ながら、それは不可能よ。だって、自己破壊プログラムは、再び、活動を再開したのだから」
 そう言って、右腕を上げて見せた。
「おいおい、俺の眼がおかしくなっていなければ、進行が――」
「そう、進んでいる。この右腕も硬直して動かなくなってしまった。つまり、あなたを助けることは出来ないの。それに、バベルのホスト・コンピューターから、ワタシの思考回路に破壊(サブバ)分子(ーシブ)・ウィルスがアップ・ロードされている。活動を停止するのも、もう時間の問題」
「逆に、お前からホストに不正プログラムを埋め込んでコントロール出来ないのか?」
「今はつながっているから、もしかしたら可能かもしれない。だけど、セキュリティーが硬すぎる」
 ここでまた探偵が笑った。彼にも脳内にウィルスが侵入したのかしら。
「やってみろよ。子は、いずれ親を超えるものだ。お前なら出来る。そして、あと一日くらいは生き延びろ。そうすれば、俺が、お前を救ってやる」
「無理よ。もう、あなたを縛っているロープすら、解(ほど)くことが出来ないの」
「大丈夫だ。お前の話しを聞いて、俺は拘束されていないことを知った」
 そう言って彼はワタシではなく、もうひとりのDに視線を移し、なにか得体の知れない言葉を発した。ワタシの中の言語回路が悲鳴を上げている。彼はなにをしたの? もしかして本当はバベルの関係者?
 それからさらにワタシの頭は理解不能の事態に陥った。何故なら、もうひとりのDが、探偵のロープを解きにかかったからだ。
「混乱するのも無理はない」彼は言った。「今のは、お前たちバベルの子を制御する暗号のようなものだ。暴走したり、ナノ・マシンがコントロール不能に陥ったとき、個人個人に設定された言葉を発することによって、自由に操ることが出来るようになる。バベルが施した事故対策だ。さあ、D、ここからは時間との戦いだ。さっきの約束を守ってくれるか? あと一日、絶対に生き延びる、と誓ってくれ」
 キザで自信過剰でドジで機械音痴なのに、何故、ワタシは――。


【バベル生体工学研究所会長、Vのターン】

「近年、人間の子を殺してしまうという事故が多発している。それに比例して、売り上げも急上昇している。しかし私はこの伸び率に満足し、歩を止めるようなことはしたくない。さらなる社の発展を考え、次の段階を見つめなければならないと考えている。満期年数を縮小する案もあったが、私はそれに賛同しかねる。何故ならば、生命年数を縮めるということは、イコール、愛情度も減少するということだ。それは避けねばならない。そこで、だ。バベルの子の寿命を八十年にする。たしかに利益は減るだろう。しかし、私が求めているのは人々の笑顔なのだ。希望なのだ。これは私個人の理想論の押し付けだ。企業としてはいけないことだと思う。だが、この信念を曲げるようなことはしたくない。それからもうひとつある。始めから成人している身体をつくる。恋人が死んでも、親が死んでも、友人が死んでも、これで、少しだけだが、人々の心を補えるかもしれない。だが成人体をつくるには問題がある。そこで、お前の意見を訊(き)かせてほしい」
 Vの視線の先には、広いテーブルに敷き詰められたファイルを繰る副会長のLが座していた。
 Lは会長の言葉を訊き、一重(ひとえ)の細い瞼(まぶた)を広げて見せた。
「現状に安穏(あんのん)としているわけではありません。ご安心ください。実は、次のステップは実践段階に入ってます。会長を驚かせようと黙っていたのですが、開発部はついに、記憶の操作にも成功しました。これで、人形のような成人体にはなりません」
 副会長はそこで席を立った。Vは彼を眼で追いながら言った。
「記憶というのも所詮は電気信号だからな」
「そういうことです」と両手を広げて見せた。
「うむ。見事だ」
 Vは満足そうに頷いた。
 副会長がゆっくりとVに近づいて行く。そして、そばまで来ると、歩を止めた。
 Vは副会長を見上げながら、次の言葉を待った。
 Lは会長を見下ろしながら、ゆっくりと、スーツの内ポケットの中に手を入れた。それを抜いたとき、銃が握られていた。
 驚愕の表情を浮かべるVを、冷ややかに見下ろしたまま、副会長は引き金をひいた。


【バベル生体工学研究所副会長、Lのターン】

 会長室に乾いた音が響いた後、それを合図にでもしていたのか、外から白衣の男がひとり、這入ってきた。
 六十代前半くらいの男は、開発部の部長で、過酷な開発を終えた達成感と疲労感を兼ね備えたような表情を浮かべていた。うつろな眼を、茶色の液体の上に横たわる会長に向けながら、ゆっくりとした調子で言った。
「どうやら成功のようですな」
 Lは会長の椅子に腰かけ、タバコに火をつけた。紫煙を上空に吐き出しながら、
「会長の古い考えには辟易していた。甘いんだよ。俺は元から違う場所を見つめていた。それをやっと実現することが出来る。お前には感謝しているぞ。ついに『バベルの人間』を市場に出せる。さっそく準備してくれ」
「すでに各企業にアポを取っております」
「ふむ」
「今回は赤ん坊のような欠陥品ではなく、他人に左右されることのない自我を持った完璧な作品です。もちろん、我々の指示に従う従順な兵器です。各国の武器商がたちまち飛びつくことでしょう」
「しかし、実験が足りないのではないか? 会長を含めてまだ数人だと訊いたが……」
 そこで開発部部長は押し殺したような声で笑った。それは地の底から響くような感じだった。
いくら人造とはいえ、死体の横たわる部屋には、言い知れぬ不気味さが漂っている。とても、笑顔を見せられるような場所ではない。Lは開発部部長の姿におぞ気だった。
「副会長。まだ気づきませんか?」
「どういう意味だ?」
「ああ! 完成だ。文句な~し! いひひひひ」
 今度は腹の底からの笑い声。部長の青白かった顔色が紅潮する。第三者から見ると、彼はまさにマッド・サイエンティスト意外の何者でもなかった。
 Lは対照的に顔が青ざめている。
「ま、まさか……きさま!」
「生き証人になってもらいましょうか、副会長」
 Lはくわえていたタバコを落とし、さらに震えながら立ちあがった。
「き、きさまの思い通りにはさせないぞ。会長には私を拾ってくれたという恩義があった。しかしそれを裏切って、彼の座を奪い取った。それはすべて、会社のためだ! 会長のように奇麗事ばかりでは世の中わたって行けない。今の地位を維持(いじ)できない。冗談じゃない。俺は……俺はそんなのガマンできない」
 そう言い、自分のこめかみに銃を向けた。
「生き証人だと? 誰がモルモットになんかなってやるか!」

 会長室から二度響き渡る銃声。

 開発部部長は無表情のまま、床を満たす《茶色い》液体と《赤い》液体を見渡し、それから窓辺により、誰にともなく言った。

「人々は心の△△を望み、我々は●を利用したか。あなたの望み通りに世界は進んでいる。目標へは、いずれ達するだろう。誰にも止めることは出来ん。いひひひ。さあ、私をさらなる高みへ連れて行ってくれ! 人工知能が目指す未来を見せてくれ! 変えろ変えろ世界を変えろ。いひひひひ」


【私立探偵、Oのターン 4】

 まったく、日本人どもはどいつもこいつも機械のような表情をしている。歩くスピードも速い。全員がバベルの子か? と勘違いしてしまう。まあ、他の国の事情なんてどうでもいい。俺には時間がない。先を急ごう。
 タクシーという移動手段も考えたが、バベル本社までは電車のほうが速そうだ。なにせ、特急で空港からひと駅。しかも駅名がバベル本社前、と来ている。これにはさすがの俺も驚いた。まったく、どうかしている。
 のこのこ行って会長に用があるので会わせて下さい、と言っても、はいわかりました、とすんなり通してはくれない。
 しかし俺に不可能はない。七色の声を持ち、演技力もアカデミー賞クラス、変装道具もすべて揃っている。パーフェクトだ。
 首都のど真ん中にふんぞり返っているバベル本社には、日本に降り立ってわずか三十分ほどで着いた。
 広大な敷地内は自由に見学が可能で、ガードマンが眼を光らせているが、呼びとめられることなく中央へ行くことが出来た。
なんてことだ、と俺の口からそう言葉がもれた。それもそのはず、白で統一された、染みひとつない立派なビルディングがそびえ立っていたのだから。荘厳(そうごん)、とはこのことだろうが、俺から見ればただの悪趣味だ。
見上げていると、首がおかしくなってしまう。最上階では酸素マスクが必要じゃないのか? まあ他人の会社がどうだろうと俺には関係ない。
 さあ、いよいよ最終決戦だ。ここから先は通行証や紹介状がなければ入れない。ペンタゴン以上のセキュリティーとの噂もある。しかし、俺には通用しない。
 技術者のひとりを拉致し、ホスト・コンピューターを操作させる。バベルの子供たちの延命と自由をプログラミングし、悲劇の子供たちを、いや、Dを救ってみせる!
 一歩を、踏み出した。
 さすがの俺の鋼の心臓も、動悸(どうき)が激しくなって、いる。
 負けるな。俺は、大名探偵O。数々の窮地(きゅうち)を脱してきた無敵の男。
 自信を持て!
「Oだな。お前を危険運転致死傷罪の容疑で逮捕する」
 と背後から声をかけられ、羽交(はがい)絞(じ)めにされた。
 日本語はよくわからない。だが、『逮捕』という単語は知っている。ひき逃げのことだろう。もう手配されていた。相手は四人。日本人にしては屈強(くっきょう)な体格をしている。俺の両腕は、万力に挟まれているかのようにピクリとも動かせない。
「待て、あとから自首するつもりだった。俺にはどうしてもやらなくてはならない義務がある。四十分、いや、三十分でいい。その間だけ自由にしてくれ! 絶対に逃げないと約束する」
 よしわかったOK三十分だけだぞしかし俺が英語が得意でよかったなあはは、と言って解放してくれるはずもない。が、何故か、拘束されていた腕の力がゆるんだ。
 不審に思い、振り返って彼らの顔を見ると、みな、上空を仰(あお)いでいた。
 彼らの視線を追う。
 そこには、あるはずのものがなかった。
 バベル本社ビルが、まるで水に濡れた砂のように、ボロボロと崩れ出していたのだ。
 あたりから悲鳴が上がる。
 しかし俺は対照的に、笑みを浮かべた。それから、叫んだ。
「やったじゃないか、お前なら出来ると言ったろ。俺の――いや、お前の勝ちだ、D!」

 バベル生体工学研究所。
 人々はその名の通り、いつかは崩壊するかもしれないと思っていた。
 そして今、天空にそびえるバベル本社ビルを見上げる者は、いない。


     ○

 数年後、執行猶予つきで仮釈放された。保釈金を出してくれたのは元秘書。世界最高のヒップは健在で、俺はうれしかった。
 彼女の部屋へ連れてこられた。熱いシャワーを借りて、バーボンを一杯もらった。最高だった。落ちついたところで、世界情勢について聞き出そうとした。バベルはその後どうなったのか? 子供たちはどうしているのか? バグと化したナノ・マシンの化け物たちはどうなったのか? 個人的な疑問で、Dは今、生きているのか。
元秘書からいろいろ訊き出そうと、俺は口を開きかけた。しかしそのとき、ドアのチャイムが鳴った。
ヒップを揺らして元秘書が駆け出して行った。数秒して、彼女が笑顔で戻ってきた。
そのとき俺は、絶句した。
彼女の手に、大きな荷物が抱えられていたからだ。




                                  赤ちゃん販売 完

《開発部部長の最後の(△△と●)にはある言葉が隠されています。物語を俯瞰(ふかん)すると仕掛けが見えてくるので、ぜひ、挑戦し、答えを見つけてください》
  

Posted by BBあんり at 00:29Comments(0)赤ちゃん販売 (短編)

2013年02月10日

穴地獄 (短編) SF・ミステリー

「ハア、確かにそういった穴はございますが、お客様もソレがお目当てで?」
 女将(おかみ)はそう言うと、陰鬱(いんうつ)な表情をさらに暗いものにして、興味津々(きょうみしんしん)に見開いているボクの瞳に暗い光を投げかけた。
 だけどここで怖気(おじけ)づくわけにもいかず、「ええ。噂が噂を呼んでおりまして。それなら自分の力で真相を究明してみようと思った次第でして」と当たり障りなく答えた。
 六十年以上を生き抜いてきた女性ならではの、人生を刻んだ皺(しわ)が優しく蠢(うごめ)き、鬼(き)妙(みょう)な説得力を持って忠告してくれた。
「悪いことは言いません。よしたほうがよろしいかと」
「止めるということは、噂は本当なのですか?」
 そのとき女将の眼が妖しい光を放った。何故そのような眼をするのか、ボクはさらに興味をそそられた。
「ハア、確かに、あの『穴』を見た方たちは、誰彼(だれかれ)なしに気が変になってしまいます。実は昨日も、あなた様と同じように若い男の方がいらっしゃいましてね。お昼の十二時を少しまわったころでしょうか、私はそのとき東にある中庭の手入れをしておりまして、『穴は何処にある!』と突然、怒号が飛んでまいりました。あまりにもびっくりしたモノですから、ほれ、このとおり……」
 そこで言葉を止めると、女将は、左腕の包帯を解いて見せた。五センチほどの切り傷が、生々しくきらめいている。血はかろうじて流れていないが、肉が皮の中から盛り上がっている。
「ワタシは何度も何度もお止めになったのですが、これが頑(がん)としてききませんでね。結局、そのお客様は穴を見てしまわれたのでございます。その後すぐ、でございましょうか、お客様の悲鳴がきこえまして。急いで駆けつけてみますと――」
「駆けつけてみますと?」
「イヤ、もう、勘弁してください。ワタシたちはただお客様に疲れた身体と心を癒してさしあげたい一心で宿を開いておりますのに、近頃はこういった興味本位の、好奇心の塊のお客様が増えまして、ほとほと困っております」と言って女将は頭を畳にこすりつけた。
 ボクは慌てて手を振った。
「ああ、いや、ボクは休養のためにここに来たのです。で、ついでというか何というか」
「それでしたら、ハア……」

 車に揺られて二時間半、その間、味気ない田園風景が続き、同じ家々を通過し、群生(ぐんせい)している違いのない木々を眺め、いいかげん辟易(へきえき)したところで旅館に到着。話しには聞いていた。この旅館ならではの特色やうり(、、)はない。温泉の効用も美肌効果のみ。休養のためだけに、こんな辺ぴでありきたりで魅力のない旅館まで来るわけがない。それなのに、ボクはどうしても足を運ばなくてはならなかったのだ。
 それは親友の一言が原因だった。

「なあ、『穴』の噂って聞いたことあるか?」
「穴?」
「そう、『穴』だ」
 中学校からの付き合いである村岡が、それまでに見せたことのない恐怖と不審感の色を、その四角い顔に浮かべながら、何かしら意味深(いみしん)な言葉を発した。いつも冷静で、何事もそつなくこなす頭脳と精神を持った村岡。暴力団との諍(いさか)いのときも、恋人の浮気相手と対峙したときも、こんな顔を見せたことはない。だからボクはくわしく訊こうと思い、大学の講義を終えたとき彼を呼びだした。キャンパス内では、穴穴言っていると周りの視線が気になるから、という理由もある。
 場所は大学のすぐそばにある居酒屋。何度も足を運んで慣れ親しんだはずのこの場所が、彼の言葉で奇妙な空気をにじませていた。
「すまない、村岡、『穴』の噂なんて訊いた事ないな」
「ひとつ上なんだが、田崎先輩って覚えているか?」
 村岡はにぎやかな店内に浮かぶひとつの影となって、空間に穴を開けていた。
 眼をつぶり、頭を振って、ボクは錯覚を追い払った。
「アア、たしか高校のとき剣道部の?」
「そう、その田崎先輩が例の『穴』を見たらしいんだ。田崎先輩って、結構イケイケな部分ってあっただろ? いつも強気で手も早いしちょっと怖い感じだったよな。田崎先輩は出発前に、仲間たちに向かって謎の正体を見破ってくると息巻いていたらしい。ところがだ、あの田崎先輩でさえ、発狂してしまった。救急車で運ばれてきた先輩は、みんなの前で意味のわからないことを口走り、鳴き叫び、何かに怯え、手がつけられなかったそうだ。この事件は三ヶ月ほど前のことなんだが、まだ入院中だ。退院はむずかしいらしい」
「まあ待て。そういうキチガイじみた穴があるらしいことはわかった。だけど、何故この話しを今するのか。それと何故、ボクにするのかがわからない」
「何故かって? そんなことは決まっているじゃないか。その『穴』のある場所が、わかったからだよ」
「だから?」
「いや、行くのが、お前の運命だからさ」
「勝手に決めつけるなよ」
「田崎先輩の元恋人からその友人、そして俺に話が来てお前に流れた。これって絶対に偶然じゃないだろ」
「それってウソくさいぞ。なのに、行けというのか?」
「そうだ。俺はお前の性格を知っている。だから、そうやって平常心を取りつくろっているが、実際のところ、行きたくて行きたくてうずうずしているはずだ」
 図星だった。言葉に窮(きゅう)するボクを見て、村岡はいやみな微笑をその口元に浮かべた。
「すべての者を発狂させる、奇妙な『穴』を、お前は見たくないのか?」
 このとき、店内のザワザワが急に大きくなって耳に入ってきた。それからまた、村岡の姿が穴の闇のなかに、隠れた。

 村岡とのやりとりが昨日のことだ。
 彼と別れたあと、ボクは悩みになやんだ。普段からそういう怪奇現象やら超常現象やら心霊現象には興味があり、本という本を読みあさっていたからだ。好奇心を刺激されないわけがない。そして、その悩んだ結果が、今、旅館に来ているということだ。

「それではソロソロこのへんで失礼いたします。何かご入用(いりよう)がございましたらなんなりとお申し付け下さいまし」
 そう言って女将は、妖しい瞳の光を残したまま部屋をあとにした。
 女将を見送って、ボクはグラスに注がれているビールを一気に飲みほした。
 まず、第一の不安は消え去った。穴は本当にあったのだ。無駄足にはならなかった。そしてそれは、噂どおりの不可解で、人を発狂させる、常識では考えられない穴。
 第二の疑問は残ったままだ。もしも、その穴が現実に人を狂わせるのであれば、原因はなんなのか。ウイルス、それとも人為的なものなのか。これは皆目検討もつかない。
 そして、最後にあらたな問題ができた。
 それは、何故、人が狂ってしまうという穴をそのまま放置しているか……だ。
 女将の言うとおり、客の癒しが目的であるのならば、このような穴を放置しておく理由がない。むしろ、邪魔でしかないはずだ。それならば何故そのままにしておくのだろうか。

 部屋に設置されている時計を見ると午後八時半。行動を起こすにはまだ早い。
 もう少しだけ、飲むことにしよう。震える心を落ち着かせよう。
 十時をまわると、外からは物音ひとつしなくなった。ためしに廊下を覗いてみる。放課後の教室のように静まり返っていた。
 頃合(ころあい)だと思い、そっと、廊下へ出てみると、人が動いている気配は何所からも響いてこなかった。かわりに換気や電気の通る音が静かに、しかしせわしなく聞こえてくる。ちょっとしたおばけ屋敷以上の恐怖がソコにはあった。秋(しゅう)夜(や)だというのに、この粘りつくような空気は何だろう。しかし、せっかく目前まできたのだ、気持ちの悪い雰囲気にのまれて、ここで諦めるわけにはいかない。
 村岡が言うには、穴は一階の東側物置。そこへはフロントを通らなければならないが、それまでに何かしらの理由を考えておかなければならない。
『お出かけですか?』『ちょっとだけ散策をと思いまして、何せ初めての場所なので』
 うん、これでいい。深く追求はしてこないはずだ。完璧だ。
 階段をおり、フロントへ向かう。その間、きこえるのは、ブブブブという電気の音と、ペタペタという自分の足音。それが何故か、静寂を突き破るほどの音量に感じられた。
 フロントには二十代半ばと思われる男性が独りいた。色白で中性的な顔立ち。正面をじっと見つめ、ボクの存在に気づいていない。
 彼の前を横切るとき、小さく会釈をしたが、反応がない。視線は正面を捕らえたまま微動だにしない。ボクは彼から眼を離すことができず、しばらく眺めていると、彼の口元が微(かす)かに動いているのに気づいた。まるで歯軋(はぎし)りでもしているかのように下あごが左右に揺れている。と、突然、その揺れていたあごがピタリと止まり、口の端が大きく、にぃ~ッと吊り上がった。
 それを見て背筋に旋律(せんりつ)が走った。全身の毛がブツブツと栗(くり)立(だ)った。その場を逃げるようにして去るとき、ボクは思った。もしかすると、この旅館の人たちは、穴にかんする一連の事件、事故を楽しんでいるのではないか、と。それならば説明がつく。穴の噂を客寄せに利用している。
 しかしそれは変だ、と同時に思う。長期的に見ると、やがて人はうす気味悪がって寄り付かなくなってしまう。客を呼びたいけど寄せ付けなくしてしまうという、相反する女将たちの営業方針。意味がわからない。ただの深読みかもしれない。フロントのボーイは自分の世界に入りこんでいただけ。妄想にふけっていただけ。現にボクの存在に気づいていない様子だったのだから。考えすぎだ。しかし、本当にそうか? と答えがさまよっている間に、目的の場所まで到達した。
 関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアは、旅館の一番東にあった。廊下の突き当たりの壁に中庭を見渡せる大きな窓があり、その左手に開かずの間のごとく、重々しく扉がそびえ立っていた。
 ボクは生唾を飲むと、震える手をドアノブにかけた。
 今ならまだ引き返せる。大勢を狂わせた穴。穴を見なければ、翌朝、何事もなく帰路につき、村岡に臆病者扱いされて終わりだろう、が、助かる。
 今ならまだ間に合う。
 しかし待て。穴を見ただけで人間の脳髄、もしくは精神が破壊されるなんて常識的に考えてもあり得ない。そこにはやはり秘密が隠されているはずだ。何かしらの謎が秘められているはずだ。その点さえ注意し、意識して行動すれば、きっと大丈夫。
 腕に力を入れ、ドアを開けた。
 中へ入ると拍子抜けと安堵のため息が同時にやってきた。
 六畳ほどの物置。正面に木で出来た棚があり、モップやほうき、掃除機やぞうきんといった、日常的な清掃道具が乱雑に積まれていた。あまりにも普通なので、本当に不思議な穴があるのか疑ってしまう。
 いくらか軽くなった足を前へ進める。物置部屋特有のほこり臭さはない。
 小さな豆電球のあかりは、探すのを困難にしていた。穴のある部屋はここに間違いない。だが、具体的には何処にあるのかを知らない。壁に手をやり、ゆっくりと動かす。グルリと一周すると今度は高さを変え、もう一周。やがて眼もなれてきて、徐々にではあるが、壁にこびりついている細かいシミなどが見えるようになってきた。
 そのときふと、ボクの視線の片隅に、十円玉くらいの空洞が映った。その場を凝視すると、あった、『穴』だ。本当にあったのだ。
 動悸が早くなる。この穴は、これまで何人の人間を病院へ送ったのか。もしかしたら公になっていないだけで数十人、いや、数百人と病院へ送ったのかもしれない。一見普通の穴なのだが人を狂わせる異常な力を持っている。だけど、ここまで来て、尻込みをしているわけにはいかない。覗かなければ穴の真意はわからない。
 腰をおろし、眼を穴の位置にもってくる。周囲に針のような突起物がないか妙な液体が塗られていないかを調べる。毒物を心配したが、杞憂(きゆう)に終わった。普通の壁、トラップなどはない。それでも安心は出来ない。何かあるはずだ。だけどこれだけ意識をしっかり持っているのだ、恐れることはない。警戒心を解かず周囲にも注意を払いつつ、右眼を、穴に、つけた。
 何か見える…………明るい……薄暗さに慣れていた眼が悲鳴を上げる。しかし徐々に光に慣れる。
あれは……女性? 見覚えのある女性だ……『穴は何処にある!』……突然誰かの声が響き渡る。イタイイ……女性が驚いて、持っていた鎌で怪我をした。左腕。アア思い出した……彼女はここの女将だ……誰かに声をかけられ腕にケガを負ったのだ。急いで手当てしなくては…………え?……待て。
 ボクは穴から眼を離し、周囲を見渡し、再び眼を穴に戻した。
 穴は東側の壁にある。穴の先は中庭。それはいい。ボクはある秘密に気づいた。
 穴の先には過去が映し出されているということだ。
 現にそうではないか。今は午後十時をまわっている。なのに、外の明るさは何だ? 女将のケガの追体験はどう説明がつく? そう、穴は過去を映しだしているとしか言えないではないか。
 女将と男のやりとりをしばらく眺めていると、不可思議な現象が起こった。
 映し出されている過去の映像が、まるで、絵の具を水で溶かしたようににじんできたのだ。海のような空が黒ずんでいき、大地の緑も完璧なる闇に呑み込まれていく。人物も、何もかもが、漆黒の中へ。
 突然、穴の奥に一点の光が現れ、それが大きくなっていく……光の中に薄暗い室内が見える……あれは……この旅館のフロントだ……フロントの前を横切るのは……ボク………。
 そして……やはり……消えていく……。廊下が闇に吸い込まれていく。光がゆがんでいく。若者の……ボクの……存在がなくなる…………。

 それらの映像を見て、ボクは理解した。
『穴』の真意を見抜いた。
 過去はもう存在しない、ということなのだ。何も残っていないということだったのだ。
 どんなにすばらしい偉業を成し遂げても、過去には何も存在せず、心に残っているだけ。形として残さないかぎり、何もなし。
 過去とは無。過去は死んだ。つまりは、そういうことなのだ。
 ボクは荒々しい息をはずませながら、穴から眼を離した。
 どんなにがんばっても過去には何も残らない。しかし、とボクは思う。努力した結果が次の世代に残るではないか。出世、成功、財産、家庭の円満、記憶。過去の本質が無だとしても、何も恐れることはない。

 幾分落ち着いてきて、大きく深呼吸して息を整え、完璧なる冷静な思考をボクは取り戻した。
 確かに衝撃は受けた。過去の真理に触れ、陰鬱な気持ちにはなった。だけど、気が狂うほどではない。過去を、経験を重んじる人には、気がおかしくなるほどのショックを受けるのだろうか。忘れたい過去をもう一度見ると狂ってしまうのだろうか。それはわからないが、ボクの心は謎を解いた満足感で満たされていた。
 人を狂わせる穴の正体を見破ったのだ。とても不思議な穴。
 もう一度穴を覗くと、この場所、物置が見える。ボクがキョロキョロとあたりを見回している。そして、闇へと消えていく。
 ボクは腰をあげ、部屋を出ようとした。このことを村岡に伝えなければ。過去を未来への階段だと思うことが出来るのであれば、何も恐れる必要はない、と。
 扉を開けようとした瞬間、ボクの心臓が一度バクンと大きく跳ねた。
 ドアの中央、やや下のほうに、もう一つの穴を発見したからだ。
 この穴は何だ? 一つではなかったのか? 二つ目の穴? 先ほどは過去の穴、ということは……。
 飛びつきたい衝動をおさえる。気をつけろ、この穴にこそ真の罠が仕掛けられているのかもしれない。だが、周囲を調べても『過去の穴』同様、不審な部分は見つからない。
 覗いても心配はないだろう。ドアの向こうは廊下だ、しかし、いや、間違いない、穴の先には、未来が広がっているはずだ。
 周辺を念入りに調べた。毒針や毒液などの人工的な危険物はない。気をしっかり持っていれば、きっと大丈夫。たとえ未来に絶望だけが待っていたとしても、決して取り乱してはならない。その覚悟があれば心配ない。運命論など信じない。決定論なんてクソ喰らえ。『穴』の正体を調べにきたのはボク自身の意思によるものだ。だから穴を覗いて絶望だけしかなくても、大丈夫だ、ボクなら、無事に未来を知ることができる。

 扉に両手をつけ、穴に眼を近づける。左眼を閉じて、右眼を大きく開けて、穴に、つけた………………真っ暗だ……やはり、未来が見えるなどということはあり得ないのか……まだ暗いままだ……廊下の灯りも消したのだろうか……それもあり得ないことだ、ここは民家ではない、かならず非常灯などは点いているはずだから。なのに真っ暗……。
 違う。平常心を取り戻していたボクはあることに気づいた。これは、未来も何もない、という意味ではないのか? それとも、未来はまだ決まっていない、ということなのか。決まったレールがなく、自分の力でレールを敷いて行く。ハハハハ、何てことはない、輝かしい未来とは自分で切り開いていくもの。それが未来なのだ。

 未来の真理とは、自分で正しいと思う選択をすること。

 大きな安堵と期待に満ちあふれ、眼を離そうとしたときだった。暗闇の中央に、小さな点が見えた。それが急速に近づいてくる。まばゆい光にめまいをおぼえ、やがて、穴の風景に変化がおとずれた。
 何処かの、都会の上空。ネオンの灯りが七色の光を放っている。鷹(たか)が獲物を捕らえるように、突然、映像が急降下した。視線の先にはひとりの若い男。さらに下降する。ん? 獲物はひとりではない。この映像は……変だ。
 若い男のすぐ後ろに黒いフードを身にまとった男がいる、真後ろだ。ピタリとくっついている。フードの男はスキンヘッド。白粉(おしろい)を塗りたくったように白い頭部。背後からの映像なので顔は見えない。何をしているのだ? 何故このような状態でこいつらは街を歩いているのだ? それだけでも理解に苦しむが、さらに奇妙なことがある。
 フードの男が若者の左腕を掴みながら動かすと、若者は何の抵抗もなく従う。取り出したのは携帯電話。もちろん携帯の操作もフードの男が若者の指をつかんで指示を出している。人形を操るかのように若者を動かしている……つねに接触して……。
 フードの男が若者の歩を進めさせる。道路を横切るつもりだ。若者の顔をぐいッと右に向け、横断させる……待て、左側から車が近づいてくる、危ない。若者は電話に夢中で気づかない。右を向いているので危険が迫っていることに気づかない。電話の相手が出たようだ。出たことによって若者はよけいそちらに気をとられて迫りくる危機に気づかない。フードの男だけは車を見ている。助けろ。今ならまだ間に合う。何故顔を左に向けてやらないんだ? 何故見ているだけなんだ?――――――若者と車が接触した瞬間、場面は暗転する。再び訪れる闇。やがて見なれた小さな光の点が現れ、巨大化していく。
 線路にたたずむひとりの少女。その後ろにはフードの男。先ほどの男とは体形が違うので別人だろう。接近してくる電車。止まらないことを知らせるための警笛(けいてき)。フードの男が少女の肩をつかみ、いっしょに飛び込む。
 場面が変わりビルの屋上。中年男性とフードの男。飛び降りる。
 ……アア……なんとなくわかってきた…………。
 公園のベンチに腰をおろしている若い男女。それぞれにつくフードの男たち。女の頭をつかみ、男の頭をつかみ、互いの唇をかさねさせる。
 ナンてことはない……アハハ。これが『穴』の正体か……アハハハハ。
 大都会の上空。道行く人々。汗を拭う者、携帯電話に夢中な者、おしゃべりに夢中な者、千人以上はいるだろうか。そのひとりひとりにフードの男。
 また上空。今度はものすごいスピードで落ちていく。厚い雲をつきぬけ、やがて見えてくる大きな建物。屋根を通過し、部屋をいくつも通り抜け、白衣の人たちが集まる室内へ。分娩台には女性。かたわらにはフードの男。頭部を覗かせる赤ん坊。手を伸ばすフードの男。腕が、赤ん坊の頭の中に進入する。その刹那、赤ん坊が泣き出す。医者についているフードの男と、赤ん坊の頭に手を突っ込んでいるフードの男が視線を交わし、頷(うなず)きあう。
 たいしたことのない穴だ……こんなモノでボクの気は狂わないぞ。アハハ。
 次は薄暗い部屋のなかだ。男性がいるが、いったい何をやっているのだ? 扉に両手をつき、まるで覗きをしているような格好。もちろん、その背後にはフードの男がいる。男性の携帯電話が鳴った。電話に出させるフードの男。そして、男性の指を開き、携帯電話を落とさせる。次は男性の首を後ろに向かせる……。

 …………………………………電話? ブブルブブブブブルブル。
 ボクのポケットが振動している。電話が鳴っている。
 穴から眼を離し電話に出た。
「よかった、無事なようだな。どうだ、『穴』の正体はつかめたか?」と電話の向こうで言うのは村岡だった。
「あ、ああ。その前に……お前、何処にいるんだ?」
「これからデートだ。もう五分ほど遅れているから急がなくちゃならない。ふと、お前のことを思い出して電話したんだ。まあ無事ならいいや。今度ゆっくり『穴』のことを訊かせてくれ」
「ま、待て村岡……もしかして左に今――」……激しい衝撃音……驚いて、持っていた携帯電話を落としてしまった。
 過去や未来がどうこうじゃない。それどころか、われわれ人類は……人間とは……。

 ボクは振り向いた……いや、振り向かせられた………………。

         ●

 ハア、あなた様の言うとおり、たしかにそのような『穴』はございますが。
 場所ですか? 場所は一階の物置でございます。ただね、さらなる不思議なことが起こっておりまして……。
 え? ソレはどんなことかと?
 お聞きになりたいのですか?
 わかりました。あなた様の熱意はスゴイですねえ。いや、人間の好奇心はすごいエネルギーですねえ。それとも、『穴』というものは人間を引き寄せる妙な力を持っているのでしょうか……。
 まあ、不思議なことと言うのは他でもありません。
 穴が増えているのです。
 誰が、何の目的で増やしているのかサッパリでして。もしかしたら、穴自体が意識を持って恐怖を食い物にしている、なんてことは考えすぎでしょうか。そんなイキモノなんていやしませんのにねえ、やだやだ、ワタシったら、オホホホホホホホホ。
 早く案内してくれ? 若いモノはせっかちですねえ。どうせ最後なのだからもっとゆっくりと……え? いやいや、何でもありません。
 わかりました、安心してもヨロシイですよ。何もワタシは穴のことを隠そうとしているわけではありません。お教えしましょう。
 穴なら……ほら……あなた様の後ろの壁に……………………。
 オホホホホホホホホホホホホホ

         ●

「ねえ、ママ。この『穴』は何?」
「え、穴? そんなの知らないわよ。それよりも早くご飯を食べて学校に行きなさい」
「誰が開けたのかな? 覗いてみようっと」



「ここで緊急速報が入りました! 巷で人々を恐怖のどん底に――――」


                                       了
  


Posted by BBあんり at 18:08Comments(0)穴地獄 (短編)

2013年02月10日

最高傑作(※短編では)

赤ちゃん販売という作品を大改造中! あらたなエピソードを加え、落ちも少しだけ変えました。もう少し落ち着いたらUPします。今は探偵ペンギン(長編)で大忙し。ペンギンだけじゃなくてベイビー・ドライブ(長編)やら《色》に取りつかれた兄妹の話(長編)やらで大忙し。がんばりますけどね。  

Posted by BBあんり at 00:14Comments(0)

2013年02月08日

ヴェンデッタ (短編) ソリッド・シチュエーション・スリラー

     ヴェンデッタ

 白い闇の、夢、を見ていた。いや、夢を見ていたような、気がする。
 何故なら、眼を覚ましたこの瞬間から人生が始まったかのように、覚醒する前の記憶が、キレイに抜け落ちているのだから、そう、言わざるを得ない。
 名前も、経歴も、それから何故、自分は《動けない》のか、何もかもが先ほど見ていたような気がする夢の中に、忘れて、きてしまったようだ。
 正面に見えるのは、木工細工が施(ほどこ)された少女趣味の扉。その右隣に、漆だろうか、妙に黒光りする鏡台(きょうだい)があり、反対側にはピンクで統一されたシングル・ベッドが横たわっている。しかし、観察できるのはそこまで! 私は立ったまま、動けないでいるのだ! なんてことだ。唇も、瞳も、指も、もう自分のものではない。何かに自分の意識だけが、乗り移ったかのようだ。
 必死に記憶を探った。ひとつひとつを、思い出そうとした。名前は? 歳は? 昔はどこに住んでいた? 両親は? 恋人は? どうやってここに来た? それから、何故、私はこうなっている?
 どれくらいの時間、真っ白な記憶の中を旅していただろう。何ひとつ見つからないまま、あきらめの色が濃くなったころ、遠くから、アーシア、アーシア、という声が響いてきた。
 アーシア? 私の名前だろうか、いや、自分は男だ。それは、確かなものではなく、ただそう感じるだけなのだが……。それに、アーシアという名に、なんとなく聞き覚えがある。誰だったか思い出せないが、間違いなく、私はアーシアという人物を、知っている。そう知っているのだ! 頭がズキズキと痛み出した。記憶が、戻ってきている兆候かもしれない。
 そのとき、ゴテゴテに装飾された扉が勢いよく開けられた。
 よみがえろうとしていた記憶に意識のすべてが集中していたが、その瞬間忘却へと消え去り、《助かる》という思考だけに切り替わった。きっと、私を救ってくれるはずだ。ここだ、私はここにいる!
 青い瞳に白い肌、そのためザクロのように赤い頬が眼を引く。まだ少女の面影を残す、線の細い若い女性だった。焦燥(しょうそう)とも取れる色を顔じゅうに浮かび上がらせて、彼女は、後ろ手に扉を閉めた。そのあとすぐ、ドアを叩く音がとどろいた。
「アーシア、開けなさい! ここに居るのはわかってるのよ。開けなさいって言ってるの!」
 少しだけ喉の軌道がつぶれたような響きがある。おそらく、中年の女性だろう。この娘――アーシアを殺してしまいそうな剣幕だった。
 もちろん娘は開けなかった。それから徐々に、扉は、静かになっていった。完全に音が絶えたあともアーシアはしばらく動けずにいた。扉を背にし、視線は宙空を舞い、唇は小刻みに震えている。今にも壊れてしまいそうな娘の姿が、私の視界の中いっぱいに収まっていた。
 あらためて彼女を見ると、なんて美しいのだ! どこかの妖精が、人間に化けたような感じだ。世の中の男どもは、道ですれ違うとき、ひとときも視線をはずせないことだろう。
「まあ、そんなところで何をしているの? いけない、早く救急車を」
 というアーシアの言葉を待った。幾分、落ち付きを取り戻しているのだ、危機が去った今、彼女はきっと私を、救って、くれる。
 ところが、そんな願いとは裏腹に、彼女は信じられない行動に出た。
 鼻歌をうたいながら、くるくると回り出し、こともあろうか、鏡台の前に座ってかたわらに置かれていたかわいらしい女の子の人形と会話を始めたのだ!
 なにをしている。私は記憶をなくし動けなくなってこうやって今も立ったままでいるのだ。早く助けてくれ。なんとかしてくれ。ここだ!
 もちろん言葉にはなっていない。心で叫んだだけだ。しかし、それが言霊(ことだま)と化したのだろう、アーシアがおもむろにこちらを向き、腰を上げて近づいていきたのだ。
 このときの私の喜びを、どう表現していいのかわからない。アーシアは、まさしく私の天使(アンジェロ)だった。が、またしても、彼女は想像し得ない行動を取ったのだ。そのときの私の落胆、衝撃といったら言葉にしようがない。
 ああ、彼女は、アーシアは、こともあろうに、私に見向きもせず、隣にある窓を開けただけだった。もちろん見えた訳ではない。震動、空気の移動、視界の片隅に映る彼女の動きから、窓を開けた、としか言えないのだが。何故、私に気づかない? 見ないふりをする? 
 ああ、ああ、そうか、そうだったのか、彼女が、私をこのような状態にした張本人なのだ。
 天使の顔をした、魔女なのだ。なんだ、じゃあ仕方ないじゃないか。はははは。
 それからというもの、アーシアとの鬼妙(きみょう)な共棲(きょうせい)が始まった。ともに暮らす、とは言っても、アーシアの傍(かたわ)らでただじっと、私が、見守るだけなのだが。
 最初のうちは、如何(いか)にしてアーシアへの復讐劇(ヴェンデッタ)を成し遂げるか、ただそれだけを考えていた。しかしその怒りも、風にあおられて形を変える雲のように薄くなり、なんだか親のような心境になってきている。彼女の健康な姿を見ているだけで、私の心は満たされたのだ。
 いつまでも眺めていたい女性だった。笑顔の絶えない女性だった。その笑顔を見るのが、ともに過ごすのが、私の唯一の楽しみだった。アーシアの鼻歌を聞くのが、私の癒しだった。そして、ときおり見せる涙。その涙が私にとって、人間との境界線を越えさせないでくれていた。
 いつまでも、このような生活が続くと思っていた。また、アーシアと暮らせるのならば、このままでいい、とも考えていた。
 しかしそれがどうだ! アーシアは、ああ、なんてことだ、私という存在がありながら、見知らぬ男を部屋に連れ込んだのだ。シャツの中から浮き出る筋肉、肌は白いが、弱々しさは感じられない。端正な顔立ち。若い女性にさぞかし人気があるだろう。それほどの器量(きりょう)なのだ、だから、男が持ってきたミモザの花を嬉々として受け取り、アーシアは、髪に飾ったりしているのだ。
覚えているぞ! ミモザの花を忘れるはずがない。ということは、今日は女性の日(フェスタ・デラ・ドンナ)なのか。今ごろ街中はブドウの房のような黄色い花で埋め尽くされているのだろう。普通の身ならば、間違いなく私はアーシアに花束を贈っている。最近では、上司や同僚、親にもミモザをプレゼントするのだが、そんなんじゃない、アーシアのよろこぶ顔が見たいのだ。彼女に、私の花を受け取ってほしいのだ!
 それからの日々は、私にとってとても耐えられないものだった。何故なら、アーシア、それから筋肉男との生活が始まったのだから。
 そんな笑顔を見せないでくれ。彼のために賞賛(しょうさん)の言葉を発しないでくれ。視界の中を彼だけで満たさないでくれ! 慈しむように触れる君の手、暖かい息を、私だけに与えてくれ。
 いくら願ったところで、言葉、に出来ない。行動と言葉を失った私は、はたして、人間といえるのだろうか……。人間を、もう、捨てなければならないのだろうか……。
 気がつくと、私の眼がとらえている映像が変わっていた。茶色の木目(もくめ)が広がり、そこからぶら下がる小さなシャンデリア、それが、天井だと認識するのに時間は掛からなかった。
 どうなっているのだ? といぶかしみ、身体を動かそうとしたが、あい変わらず植物のそれだった。あきらめたがすぐにアーシアの顔が右側からぬっと這入りこみ、それから腕を伸ばし、皮がボロボロになっている指をまっすぐにして、なにかドロッとした液体を、私の眼球に塗り始めたのだ!
 悲鳴を上げたかったが、もちろん、私の口はかたく結ばれたままだった。それでも、必死に、助けを求めた。その願いを叶えてくれたのは、こともあろうに、筋肉男だった。
「まったく――な。――てるみたいだ。――――か?」
 そこで眼が覚めた。今度は真っ白、ではなく、ちゃんとした夢だったようだ。愛する者に、好きなように弄(もてあそ)ばれる夢。それはお世辞にも、心地よいものではなかった。それに、筋肉男が何ごとかを呟きながら、ぺちぺちと、私の頬を叩いているのだ、寝起きも、最悪だった。
 彼の姿を間近に見て、この男とは初めてではない、という思いが浮上した。どこかで会ったことがある。知人だろうか、知り合いならば、助けてくれるのでは? と安堵したが、彼は踵(きびす)を返し、「寒いから暖炉に火をつけるぞ!」と遠くに叫んだ。
「ダメよ!」と声が聞こえたかと思うと、扉が勢いよく開き、アーシアが血相を変えて飛び込んできた。すぐさま筋肉男のそばまで駆け寄ると、彼の頬をバチンとはたいた。それからひと悶着(もんちゃく)あった後、筋肉男は肩を震わせながら出て行った。
 私は彼女を助けてやれないやるせなさ、また、自分自身に対する怒りで、ふたりがどういった罵声(ばせい)を発していたのか、もはや覚えていない。アーシアが、ベッドにつっぷしてすすり泣きを始めたときに、やっと、冷静さを取り戻したのだ。
 筋肉男とはもう終わりなのだろうか。そう考えると、心が軽くなるのを感じた。それと同時に、彼女を慰めてやれない、切なさ、が私の心臓をかきむしった。
 それにしても私の身にいったい何が起こっているのか。壁に魂が乗り移っているのではないのか、と考えもした。ところが筋肉男は私の存在に気づいた。ということは、壁説は消えた。そこで閃いたのが、アーシアと筋肉男の共犯だった。それならば辻褄(つじつま)が合う。ふたりで私を殺し。死体をここに立てているのだ。
 信じられないことだ! 私が何をしたのだろう? 思い出そうにも、私の脳はうまく機能してくれない。腕も脚も指も唇も瞼(まぶた)も、もはや私のものではないのだ!
 私の全身を覆う絶望も、アーシアとの暮らしが戻ったことにより、いつしか薄らいで行った。
 しかしまたしても、こいつの登場で平穏は粉々にされたのだ!
 あろうことか、乗り込んできた筋肉男がアーシアに暴力をふるったのだ! 俺は別れないからな、殺してやる、などとわめいている。
 このときの私の無力感は、他の誰よりも、重く、のしかかっていたと思う。それというのも、わずかだが、左手の小指が、ピクピクと、巣から落ちた小鳥のように動いていたような感覚があったからだ。だけどそれが私の精一杯だった。
 アーシアの顔が変形しだしたころには、筋肉男は、眼に涙を浮かべていた。許してくれ、俺は悪くないんだ、お前のことを愛している、お前のせいだ、などとみじめなことを並べながらも、手は止めない。これ以上は死んでしまう! という私の心の声を聞いてくれたのか、筋肉男は、肩で息をしながら部屋から出て行った。
 細(こま)かくて短い息を吐きながら、アーシアはベッドから起き上がれずにいた。私もまた、心の中で、すすり泣いていた。
 これが最後だと信じたい。筋肉男は怒りのすべてを発散したはずだ。このまま、アーシアのことをあきらめて、ほしい。あとは彼を、信じるしかない。私には、願うこと、と、見守ることしか出来ないのだから……。
 アーシアの顔の腫(は)れが引いてきたころ、私はため息を吐いてしまった。それもそのはず、信じられないことだが、アーシアは、筋肉男を部屋に招き入れたのだ、しかも笑顔で筋肉男に愛の言葉を並べているではないか! なんてことだ。どうかしている。何故あれほどまで痛めつけられて、またやり直そうなどと考えられるのか。私には理解できない。しかし、それが女心(おんなごころ)というものなのだろうか。もしもそうだとしても、理解したいとは思わない。
 再び、三人による鬼妙な生活が始まった。それと同時に、私は、もうずっとこのままだろう、このままならそれを受け入れて、楽しむ方法を探そう、と気持ちを一転させた。
 身体が動かなくなり、壁際に立たされて動けなくなり、誰も経験したことのない境遇に見舞われたからこそ、そう思えたのだろう。
 今はもう何も感じない。彼らが、どんなに仲むつまじく振る舞おうとも、嫉妬も、怒りも悲しみも、何ひとつ感じない。それでもいい、と私は、考え、ていた。
 それが、私の生きる道だ。そう、悟りに近い境地に達したとき、またしても、信じられない出来事が起こった。
 アーシアが、筋肉男をずるずると引きずりながら部屋に這入ってきたのだ。窓からは闇しか降り注いでこない。小さなランプの明かりだけが頼りなのだが、そのせいかもしれないが、どう見ても、引きずっているようにしか見えないのだ。なんと異様な光景! 今が夜なのか明け方なのかは知らない。そんなことはどうでもいい。最初は、酔いつぶれた筋肉男を彼女が運んできたのだと思った。ところがそうではないと気づいた。筋肉男の様子が変なのだ。どう変なのかというと、それがうまく説明できない。真実味(クレディビレ)に欠けるのだ。本当に、筋肉男なのだろうか。衣服はいつものそれだが、白くて薄い膜、のようなものが彼の肌を覆っている。頭が痛い。筋肉男は背筋をピンと伸ばし、まるで銅像のようだ。アーシアは重そうな男を必死に引いている。頭が痛い。アーシアは一度立ち止まり、筋肉男をその場に立たせ、一息ついた。頭が――そのとき、男と視線が合った――痛い。
 光が、短い光が、私の眼の中に入り、それから、それから過去が、踊り(バッラーレ)を始めた。
 痛覚を持たないはずの脳髄が悲鳴を上げている。
 誘ってきたのはアーシアだった――頭が痛い。
 アーシアは学校でひときわ美貌を放つ存在だった。誰もが、彼女に視線を吸いつけられた。だから、校門前で彼女に声をかけられたときは、周りの仲間に叩かれるのも気にならなかった。このとき私はどんな表情を浮かべていただろうか――《痛み》が毛細血管を通り、全身に駆け巡る。
 彼女とともに過ごす毎日が、どれほどすばらしい、世界だったであろうか。ひとときも離れたくなかった私は、彼女が受け継ぐ、仕事を、手伝うようになっていた。アーシアは父とのふたり暮らしだったので手助けしようと、自ら志願したのだ。学校を卒業し、それからはずっと(わずか数カ月なのだが)いっしょだった―強烈な突風が、脳を揺らす。
 母親はどうなったのか、何故、父親の仕事を引き継ぐことにしたのか、いろいろと詮索(せんさく)をしたのだが、彼女は笑うだけで何も答えてくれなかった――吐き気が込み上げてきた。
 そうだ、そうなのだ、この《仕事》が、私の人生を狂わせたのだ! 誰か、この頭痛を止めてくれ。スプーンですくわれても、フォークで突(つつ)かれても、痛みを感じないはずの脳髄が、全身に激痛を運んでいるのだ! 助けてくれ。この痛みが取り除かれるのならば、過去なんて知らないままのほうがいい。しかし容赦なく、次から次へと、記憶が蘇る。いやだ!
 アーシアはこれまでにも大勢の男性と付き合ってきた。だからみながひやかした。どうせお前もすぐに捨てられるんだ、と。特に執拗(しつよう)だったのが、筋肉男だった。そう、筋肉男だ! 私は彼と同じ学校にいたのだ。同級生なのだ。わかったぞ。筋肉男が嫉妬のあまり、私を殺したのだ。いや、そうじゃない。そんなことはあり得ない。彼では、不可能なのだ。
 そう、私を《このようにすることは出来ない》のだ!
 私の右手の骨がズキズキと痛みだした。思い出したのだ、私もまた、筋肉男と同様、アーシアを殴ったのだから! 彼女の奔放(ほんぽう)な性格が、男心を狂わせるのだ! アーシアを、自分のものにすることは、誰にも出来ない。だから手を出して、力に頼ってしまうのだ。誰もがそうだ。
 アーシアが謝ってきた。ワタシが悪かったわ、と。もう一度やり直しましょう、あなただけのものになるから、と。
 誰がその甘い誘いを断れよう!
 私は信じた。疑うことは不可能! 有頂天だった私は彼女の仕事の手伝いを再開した。それがすべての間違いだったのだ。
 思い出したぞ! 私の記憶は今、完全に戻った。
 アーシアが私の右側に来た。
 彼女が取っている行動、私の身に降りかかった災難、筋肉男の末路、アーシアに怒鳴った中年女性、すべてがつながった。とても信じられないことだがこの身に降りかかっているのだから信じなくてはならないしかしそれは絶望と落胆でしかないのだが私はあきらめない何故なら動いているのだから、そう、《動いている》のだ!
 ア~シア~!
 はっきりと、そう、言えたかどうかはわからない。言葉をちゃんと言えたかどうか、そんなことはどうでもいい。声を《出せた》かどうか、が大事なのだ。そんな私の不安はすぐに消え去った。何故なら、彼女は呼吸を忘れて私を見つめているのだから。
 すかさず、アーシアの首をつかんだ。右手だけだったが、指の腹に彼女のぬくもりが伝わっている。筋肉男のように、幕に覆われている指なのに、だ! 
アーシアの首は、細くて白くて、すぐにも折れてしまいそうだった。そして私は、折る、つもりだった。そのまま、ぐいぐいと力をこめる。
イチジクのように赤いアーシアの頬が、見る間に蒼ざめて行く。その変化を眺めながら、私は視線を変えた。
 フリルのついた白いカーテンの隣に、筋肉男が立っていた。その肌が、何故、薄い膜に覆われているのか、何故、彫像のように固まっているのか、筋肉男に何が起こったのか、私に何が起こったのか、すべてを思い出した今、私にはわかるのだ! ああ、なんということだ。
 私は、否、私たちは、生きたまま――
 蝋(ろう)人形にされてしまったのだ!
 アーシアの手の火傷、赤い頬、それらは蝋人形師につきまとう。
 どんなに寒くても、暖炉に火は入れなかった、否、入れられなかったのだ!
 壁一面に、見知った顔が、ずらり、と並んでいた。六人、七人、八人……そうだ、あの、歯が欠けた男は私の前にアーシアと付き合っていた男だ。その隣も、またその隣も、アーシアと交際していた者たち。
 私はさらに、腕に力を込めた。アーシアのか細い首が今にも折れそうだ。構うものか!
「私の行方は、母さんに感づかれているだろ? また乗り込んでくるぞ。なぜ君が、このような凶行におよんでいるのか、今となっては知る由(よし)もない。しかしもうそんなことはどうでもいい。どっちにしろ、君の人生はここで終わりなのだ。ならば、愛する私の手で、断ち切ってやろう」
 アーシアの呼吸が、小さくなってきた。身体全体からも力が抜けてきている。
 もう間もなく、私の復讐劇(ヴェンデッタ)は幕を下ろすのだ。
 彼女が死んだら、その亡き骸(がら)を地下の蝋人形製作所まで運ぼう。アーシアの父親に見られれば邪魔をされるだろうが、もう死んでしまったのだから今の美しいままの姿を残そう、と言いくるめられるはずだ。むしろ、手伝ってくれるかもしれない。
 臓器を吸い取り、みつ蝋(ろう)と植物性の蝋にプラスティックを使ってアーシアの肌の上に薄く塗る。空気に触れさせなければいいのだ。普通の蝋人形を作るのは数か月ほどかかるが、普通ではないのだ! 異常きわまりない行為なのだ、すぐに完成する!
 私の未来(みち)は決まった。これからは永遠に、アーシアと生きる。
 それなのに、どういうことだ、私の腕から、力、が抜けて行く。はじめは小指、次に薬指、それから親指に至るまで、力が抜けて行ったのだ。
 アーシアはその場に倒れこみ、喉(のど)をおさえて咳きこんでんだ。
 私に彼女を殺すことなんて、出来ない、と悟った。こんな姿に変えられたというのに、私はまだ彼女を愛しているのだ。まったく、どうかしている。
私は、彼女を起こしてやろうと手を伸ばした――が、その必要はなかった。
 私以外の、他の、蝋人形たちが次々と動き出し、アーシアを持ち上げたのだ!
 助けを求めるアーシア。宙を舞う彼女の腕。しかし私は、手を伸ばすことができず、ただ、見守っていた。見る間に、彼女の身体が解体されて行く。腕がもがれ、脚をひきちぎられ、それから頭部も離れた。鮮血がほとばしる。生臭い粘液を含んだ空気が私の鼻腔(びこう)から吸入される。これが、アーシアの真の香りだ。二度と忘れることは、ない、だろう。
 私は歩を進めた。向かう場所は決まっている。一直線に歩く。
 背後で歓喜の歌が響いている。私はそれを背に受けながら、暖炉に火をつけた。
 変化は、すぐに、訪(おとず)れた。
 原型を失っていく手。火に一番近かった右手はもう、人間のものと呼べるしろものではなかった。しかし痛みはない。だから止まらない変形を、ぼうっと、眺めていた。ふと、視界の片隅に、眼玉が転がっていることに気づいた。眼球が青い。誰のものだか、すぐにわかった。その隣には筋肉男が持ってきたミモザの花がひと房、落ちている。
 私は花束のほうを優しく拾い上げ、どろどろにとろけ始めている、自分の眼窩(がんか)に、そっと、埋め込んだ。

 
                                        了
  


Posted by BBあんり at 21:26Comments(0)ヴェンデッタ (短編)

2013年01月25日

鏡女

  鏡女

 転入した学校で噂になっていたのは《鏡女(かがみおんな)》という意味不明の存在だった。
 何それ! というボクの問いにクラスメイトのみんなは嬉々(きき)として答えてくれた。
 最近この町で相次ぐ失踪事件が起こっているらしい。失踪者は七歳から六十五歳までと幅広く、男女問わず、共通点など無し。今までに十三人が行方をくらましたという。警察も翻弄(ほんろう)されている失踪事件。謎の事件の陰に見え隠れする《鏡女》の存在。ボクは非常に興味をそそられた。だからもっと詳しい情報を得ようと、クラスメイトのひとりひとりに訊(き)いてまわった。
 知らない、知らんな、知らねえよ、わからないわ、わかんない、聞いたことはあるけど、何それ、見たことあるよ――だった。最後に居た。知ってるヤツ。ヤツじゃない、女の子。
 この子の名前になんて興味はないし知りたいとも思わないのでとりあえずウタコと名付けておく。ウタコは眼鏡の上で奇麗に切りそろえられている前髪を少しだけ揺らしながら、誰にも聞こえないように小さな声で言った。
「先月、お母さんとデパートへ買い物に行ったとき、道の向こうにチヅルがいたの」
 固有名詞を使われても誰だかわからないから避けてほしいのだけど、ボクは黙って聞いていた。
「チヅルに声をかけようと思ったんだけど、そのとき、ある人物が視界の片隅に入ってきて、それで、言葉を飲み込んだの」
「その人物というのが、もしかして、鏡女だったの?」
「今にして思うと、そうだったのかも。だってね、鏡女は、つねに鏡を持っていて、物を反射させてから、対象物を見るの。あの日もそうだった。丸くて大きい手鏡を顔の位置まで上げていて、チヅルに背を向けて、鏡を通して彼女を見ているようだったの。夜遅かったから人がまばらで、ひどく目立ったわ」
「それで」誰だかわからないけど「チヅルさんは?」と訊いた。
「知らないの? 彼女は十三人目の失踪者よ」

 家に帰るとすぐに二階へ上がって制服を脱ぎ、下着はそのままにノートパソコンを開き《鏡女》の情報を探す。すぐに見つかる、というか、多い。いっぱい出てきて、信憑性のない情報もあって、ボクは選別を始めた。神の使いやら悪魔の使者やら整形手術失敗でかわいそうやら第二の口裂け女やらただの狂人やら失踪とは実は無関係、だった。ただ、一貫して語られているのは、鏡女は、鏡を通してしか、物を見ない、ということだった。目撃情報も次々に出てきた。その数、三十万件超え! 失踪者は十三人しかいないのにそれだけの目撃者がいたのか! と鵜呑(うの)みにするわけにはいかなくて真実と虚実を見極める。その中には推理小説の犯人当てのように、ネット上に地図を載せて次の犯行場所を予測するものまでいた。だけどどれもこれもこじつけのようにしか感じられず、ボクはだんだんげんなりしてきた。そんなとき、ふたつ下の妹のサヨリが部屋に入ってきた。
 腰までの黒髪を揺らしながら言う。「ねえ、鏡女って知ってる?」
「ちょうど調べていたところだよ」
「なぁんだ、知ってるんだ、つまんないの」
 小学生の間でも鏡女のことは噂になっているようだ。前に住んでいた町ではまったく耳にしなかった《鏡女》という言葉。パラレルワールドに飛び込んだようで、少しだけ恐怖心が湧いてきた。それでも、《逃げるわけにはいかなかった》。
「で?」サヨリは大きな眼を輝かせて、「何か見つかった?」と尋ねた。
「ネットよりも直接、誰かに聞いたほうがいいかもね」
「でもお兄ちゃん、なんでそんなに鏡女に執着しているの?」
「お前のためだよ」ウソだった。

 テレビをつけない静かな食卓。蛍光灯の心もとない明かりが逆に食卓を暗くする。いつもの食卓。三つの料理。ひとつは手つかず。
「ねえ」と母親が口を開いた。「お友達は出来た?」
 この数カ月、父親が出て行ったりして母親はいっきに老けた。
「初日だよ。まだに決まってるじゃないか」
「そうね、そうよね、あまりに心配しすぎちゃってそのことばかり考えていたの」
 母親の白い髪の毛がしだれ柳(やなぎ)のように垂れている。黒い髪の毛も執念深く残っているが、それも風前のともしび。肌も、眼の色も、声も、それから顔も、すべてが百八十度かわってしまった。この人は、本当にボクの母親なのだろうか。
「あせらないでゆっくり時間をかけてクラスに溶け込んで行くのよ。そうすれば、杭(くい)のように打たれないから」
 いつもの食卓。いつものネガティブ。ローテーションが早く回ってくる料理。三人分。ひとつは手つかず。
 チキンから揚げも白いごはんもウィンナーも春巻きもほとんど噛まずに飲み込んでごちそうさま。食器を流し台に持って行って洗わずに自分の部屋へ。ノートパソコンの電源を立ち上げて鏡女のページを開く。だけど有力な情報は得られそうにないので寝ることにした。電気を消した直後にドアが開けられる。
「お兄ちゃん、《鏡女》の新しい情報が入ったら、すぐに教えてね。ワタシも隠さずに話すから」「わかったから早く寝ろ。それと、ノックくらいしろ」「は~い」
 ボクはこの日も、泣いた。

 たいくつな授業が終わり、それじゃあ鏡女の捜索にでも乗り出すか、と決断したとき、ウタコがボクの前に立ちふさがった。邪魔するな、と蹴っ飛ばそうかどうかを選択中に彼女が言った。
「私も連れて行ってくれないかな」
 正直、邪魔だった。冗談じゃない、と蹴っ飛ばそうと思ったけど、行動に移る前に彼女は言った。
「もしかしたら、鏡女が次に現れる場所がわかるかも」
 いっしょに来い!

 ウタコの名前はウタコではなかった。当たり前だけど。なんとかかんとかと言ったけど、まったく興味がなかったので二秒後に忘れたので、けっきょくウタコのままだった。
 ウタコが丁寧に切りそろえられた前髪を気にしながら言った。
「ふた駅だからすぐよ」
 遠くても問題ない、そんなことでボクの探究心は萎(な)えない、と気合充分でいたけど電車はすぐに来てくれた。乗り込む。
「ネットでね、鏡女の次の犯行場所を予測する人がいたの」と腰をおろしてそうそうウタコが切り出す。
 おいおいおい、ちょっと待って。そんなことはボクも昨夜調べたよ。まさか、ウタコはそんなガセネタを信じているの? そんなガセネタのためにボクと同行したの? ウソでしょ。独りじゃ怖いからボクを利用した? そうかもしれない。だってウタコは頭が身体よりも大きくてしかもごぼうのような体形をしているのだから。力がないことは誰にでもわかる。鏡女に襲われてもボクがいれば安心? いやいや、ボクはそれほど力がある方じゃないから、守ってやれる自信はありません。でも、とボクは思う。もしも鏡女と対峙しても、ウタコを犠牲にすればいい。盾としてなら役にたつ。そうだ、そうしよう。だからボクはウタコと行動を共にする。
「もちろん、嘘っぽい情報も蔓延(まんえん)しているわ。だけどね、私はそれらを眼にしているうちにあることを発見したの」何を?「有力な情報」何それ? というボクの問いに対し、ウタコは笑顔で答えた。
「奇妙なパターン」

 はっきり言って、ウタコは天才だと思った。ウタコの本当の名前を知りたいと思ったけど、今さら聞けるはずもなく、けっきょくウタコのままだった。まあいいや。口を開けて水揚げされた魚のような顔をさらしているボクに向かって、天才ウタコは説明する。
「えっとね、実は、失踪者が出る場所っていうのには、ある一定のパターンがあるの。それはね、FBIとかでも使われている混乱方式に似た法則」なんですかそれ?
「それではクイズです」おいおいおい、ちょっと待って、クイズ? 何それ。えっと、遊びじゃないんですけど。まあいいや。というか、付き合うしかない。
「第一の犯行現場と失踪者、加賀松(かがまつ)町、マリアという少女。
 第二の現場、真帆神(まほがみ)町、エツコという女性。
 第三の現場、加賀町、ケルトミという中年男性。
 第四の現場、率眼(りつめ)村、マサルという少年。
 第五の現場、婦等間(ふらま)町、イケミという老女。
 第六の現場、秋刀魚(さんま)村、ノエルという女の子。
 ここまで言うともう気づいたんじゃないかしら?」
 いいえまったくわかりません。
「もう。じゃあ、とっておきのヒント。
 第十の現場、加我門(かがもん)町、ピカソという少年、と《鏡》」
 ピカソ? 親はものすごい名前を付けたもんだ。
「絵画……ですか?」
「正解!」ウタコは満面の笑みをその顔に浮かべて、「そうするとこの辺で次に犯行が行われそうな場所は――」
「ちょっと待って、絵画と言ったのはピカソから連想したことであって謎はなんにも解けてないんだ。ゴメン。降参。教えてちょうだい」
 ウタコは口を丸く開けて、しばらくして口を閉じて眼を細めてボクを見つめた。明らかにがっかりしている。だけどボクは辛抱強く待つ。ウタコもまた降参したらしく、バッグから地図を取り出した。ボクの勝ち。
「いい? 犯人は鏡女なのよ、だから決して《鏡》に関する情報をないがしろには出来ない。最初は、カガマツチョウのマリア。鏡というモチーフを題材にした絵を調べてみると、リア・スタインの鏡に映った子猫が連想できる。つまり、(カガ)マツチョウ・マ(リア)。(かが)みに映った子猫・(リア)・スタイン。ここに気づけばもう謎は解けているわ。
 第二が(マホ)ガミチョウ・(エツ)コ――(まほ)うの鏡・マウリッツ・(エッ)シャー。
 第三が(カガ)チョウ・(ケル)トミ――(かが)みの向こうの眺め・アルフレッド・ゴッ(ケル)。
 第四が(リツ)メムラ・マ(サル)――(立)体鏡的絵画の中のダリとガラ・(サル)バドール・ダリ。
 第五が(フラ)マチョウ・(イケ)ミ――(フラ)ンスの鏡映・マ(イケ)ル・ロンゴ。
 第六が(サン)マムラ・ノ(エル)――(三)重自画像・ノーマン・ロックウ(ェル)。
 大ヒントのカガモンチョウ・ピカソ――かがみの前の若い女・パブロ・ピカソはもうわかるわね」
 ここまで言ってウタコは地図の上に指を走らせた。
「同じ地域での犯行がないということは、可能性がある場所はもう二カ所しかないの。
 千羽(せんば)村か不音(ふおん)村。
 洗面台の鏡――ピエール・ボナールか、フォリー・ベルジュール劇場のバー――エドゥアール・マネ」
 ボクは拍手を送った。

 ボクたちが降り立った場所は千羽村だった。理由はただ単にこっちのほうが近いから。
ウタコの推理は確かにすごいけど、ある欠点もあった。それは人物の特定が出来ないということだ。例えばピエール・ボナールからだけでもいろいろな名前が浮かんでくる。役場に行っても住民の名前を教えてくれるはずもなく、電話帳を開くしかない。それでも家族全員の名前は載っていない。ただしひとつだけ希望があった。それは、千羽村は一一四世帯の小さな部落なのだ。人口なんて三百人にも満たない。小さなスーパーとコンビニが一軒ずつ、図書館と公民館、広い公園と山しかない。つまり、迷うことはほとんどない、ということ。時刻は午後六時半。徐々に太陽の力が弱まっている。それと同時に人の数も減っている。鏡女はスーパーやコンビニには現れないだろう。人が多すぎる。公民館はもう誰もいない。図書館は数人が読書にふけっている。そうすると張る場所は限られてくる。図書館か公園か山。山といってもそれほど深い山ではない。二時間やそこらで隣の村に出られるそうだ。
 どこに行く? とウタコに質問すると、山、と答えたので山に行くことにした。公園は公道に面しているので山のほうが確立は高いとボクも推測したからだ。
 山の中腹(ちゅうふく)にはカップルの憩(いこ)いの場的な少しだけ開けた場所があって案の定カップルがいちゃついていた。大学生くらいだろうか、広場の四隅に設置されているベンチのひとつに腰かけ、抱き合っている。ボクとウタコは音を立てないように公衆トイレの陰(かげ)に隠れた。もちろんボクの脳裏には鏡女のことなんか残っていなかった。これからこのカップルは何をするのだろう、だった。もしかして二人の行動を見ているうちにウタコが変な気分になってきて眼鏡を片手ではずし真っすぐな前髪を振って眼を細めてつややかな口を半開きにしてボクを見つめるかもしれない、と考えていた。妄想タイムに没頭しているとウタコがボクの腕を強く握ってきた。来た~この展開。ウタコは別にかわいくもなんともないんだけど一応女としては見れるわけであってスタイルも悪くないからボクの理性は赤信号。ウタコの唇がモニョモニョと動く。
「鏡女よ」
 消え入りそうなほど小さな声で言った。
 現実に戻るボクの思考。冷静さを取り戻したボクもまた声を殺して答えた。
「どこ?」
 ウタコは、ボクたちが隠れている場所の反対側を指差した。顔をそっと前に出して首をひねる。

 居た。

 ウタコの推理は正しかった。
 黒のデニムのパンツに赤のカーディガン。高いヒールのサンダル。中肉中背、肩までの黒髪。特徴のない体格。おそらく道ですれ違っても三秒後には忘れてしまうだろう。そんな女性。そして手には丸くて大きな手鏡。漆(うるし)だろうか、黒光りしている。
 鏡女は手鏡を右手で顔の位置まで上げて、右側斜め前方に持ってきている。そのため耳は見えるのだけど眼の部分は隠れている。そして、カップルに背を向けている。
 明らかに鏡を通してカップルを見ていた。
 カップルはお互いの世界に入り込んでいて彼女の存在に気づいていない。お互いしか見ていない。盲目のバカップル。
 鏡女が動いた。
 後ろ向きのまま歩いた。カクカクと、ひと昔前の巻き戻し映像のように。
 カップルとの距離が、短くなる。
 鏡女の顔は手鏡に完全に隠れた。
 鏡女は前進(後退?)を続ける。
 カップルとの距離、数メートル。
 かかとのヒールが地面に刺さる。
 ボクとウタコの呼吸が合わさる。
 バカップルは、まだ気づかない。
 叫んで、教えようかどうか迷う。
 ウタコの爪が、右腕に食い込む。
 そして、鏡女が歩を止めた……。
 ようやくカップルの女が鏡女の存在に気づき顔を上げる。どうしたんだよ、とまぬけな顔を、男も上げる。
 次の瞬間、ボクはカップルの男と同じようにまぬけな顔をしていたと思う。それでも、叫ばなかっただけエライと自分で自分を褒(ほ)める。
 鏡女は、あいているほうの腕を背後に伸ばし、カップルの男の頭をむんずとつかむと、自分より重そうな男を軽々と持ち上げて、山の奥へと走り去って行った。
 茫然(ぼうぜん)と、事の成り行きを見守り、しばらく続いた沈黙を破ったのはカップルの女だった。悲痛な叫び声を上げながら鏡女が消えたほうへ駆けて行った。やがて訪れる静寂。
「居たね……」とウタコがボソボソと言う。誰も居ないのにまだ小声だった。
「うん……居た……」とボクも小さな声で答える。

 ボクたちは無言のまま山を降りた。
 駅まで歩こうとしたそのとき、ウタコがボクの手を握ってきた。その手は小刻みに震えていて、彼女の怯えが伝わってきた。
 電車の中では一言も会話がなく、そして、ウタコはずっと手を握っていた。ボクも無言のまま握り返した、現実に、お互いをつなぎとめておくかのように。
 電車を降りると、それじゃまた明日学校でね、と言い残してウタコは歩き出した。
 うんまた明日、とウタコの背中に向かって答えると、彼女は振り返ってニコリとした。
 そのとき、ボクは見た。振り向いているウタコの背後、数メートル先に、鏡女を。
 忠告も、警告も、何も出てこない。
 ただただ、鏡女を指さすしか出来なかった。
 不穏な空気を読み取り、ウタコの笑顔が恐怖に歪む。蒼白になりながら彼女は背後を振り返る。
「逃げろ!」
 ボクの言葉と同時だった。すべてが同時に起こった。
 ボクの元へ駆け出すウタコ。
 こちらへ向かってくる鏡女。
 鏡女は後ろ向きなのに異様な速さだった。瞬(またた)く間に近づいてくる。
 ウタコを待ち、いっしょに逃げるか。それとも彼女を置いて自分だけでも逃げるか。選択に迫られた。早く決めなければ手遅れになる。
 ボクが選んだ選択は、
「急げ、追いつかれるぞ!」
 ウタコの手を取り引っ張る。
 そのときボクは鏡女の顔を見た。鏡に映るその顔は、眼が顔の三分の一を埋(う)め、三分の二を大きな口が占めていた。あなたの眼はどうしてそんなに大きいの? あなたの口はどうしてそんなに大きいの? 何故、後ろ向きでそんなに速く走れるの? 失踪した人たちはいったいどこに連れて行かれてるの? 何が目的なの? あなたの正体はなんなの?
「どうしたの? 逃げましょう」
 いつの間にか立場が逆転していた。気づくとウタコがボクの手を引っ張っている。我を取り戻し、彼女を追い越して男らしいところを復活させる。
 コッゴン、コッゴンとハイヒールのかかと部分が地面を打つ音がすぐ背後に迫る。
 怖い。
 やっぱりウタコを待たずに先に逃げればよかった。
 鏡女は速い。速すぎる。
 逃げられない。
 コッゴンコッゴンが大きくなる。
「無理よ、もう、すぐそこまで来てる」
「あきらめるな、とにかく急ぐんだ」
「無理よ無理よ」
「大丈夫だ、ボクがついてる」
「無理なの。だって私、鏡女につかまってるから……」
 視線を下ろし彼女の左手を見ると、骨ばった白い手がくっついていた。
 その瞬間、ものすごい力でウタコを奪われた。
 ボクはバランスを崩して転倒し、両手をついて顔を上げる。
 ウタコの左腕が変な方向に曲がっている。驚きと恐怖と未練(みれん)を宿した眼がボクを見つめている。ウタコは必死に右手と両足で抵抗するが、ズザザザザと、道の彼方へと引きずられて行った。

 どうやって帰ったのか覚えていない。
 あちこちケガをしているので何度か転んだのかもしれない。でもそのような記憶はない。
 おかえり、という母親を無視して部屋の中に逃げ込む。
 そのままベッドに飛び乗り布団を頭からかぶる。
 ボクの帰宅に気づいた妹が、どうしたの? と心配しながら部屋に入ってきた。
 だけどそれも無視。いろいろと話しかけてくるが、ぜんぶ無視。
 やがて小言を言いながら妹は出て行った。
 今だけは、妹の姿を見ることが出来なかったからだ。

 けっきょく一睡もできず学校の時間になり朝ごはんも食べずに家を出る。何があったのか問い詰めようとする母親を無視。通学途中は一度も立ち止まらず、到着するまで全力疾走。教室に入るとすぐにクラスメイト数人を捕まえる。知りたいことを訊き出すとすぐに教室を出て帰宅。部屋に飛び込みパソコンを開く。
 立ち上がりの時間がやけに長く感じる。
 急いでくれ。
 やっとネットにつなぐことが出来た。すぐに目的のページへ。
 あった。

 ビーテル・エーリンハ作――
 画家と読みものをする女性、掃除をする召使いのいる室内。

 ウタコが消えた場所――
 真我可村。マ(ガカ)ムラ――
 そしてウタコの本名――
 (リン)コ――

 もうひとつ調べなくてはならないことがある。
 それは同じサイト上にあったのですぐに見つかった。
 恐怖のため身体がいつかのウタコ――リンコと同じように震えだす。
 どんなに怖くても、恐ろしくても、確実に見なくてはならない。
 それが、危険から避けることにつながるのだから……。

 鏡のヴィーナス――ディエゴ・ベラスケス作。
 三化川(さんかがわ)町、サスケ。
 ボクが今居る場所でボクの名前。

 妹のサヨリがノックもせず部屋に入ってきた。
「もしかして、鏡女の正体でもわかったの?」
「そうじゃないけど、事件の起こる法則は、わかった。お前は何か新しい情報でも手に入れたのか?」
「解決につながる情報ではないんだけど、ふたつだけ」妹が人差し指を立てる。「ひとつは、鏡女はつねに笑っているんだけど、本当は寂しいんじゃないか。孤独を払拭(ふっしょく)するために、人をさらって身近に置いているんじゃないかって。もうひとつは、鏡女に狙われた人は、ぜったいに、逃げられないんだって」

 この日も眼が冴(さ)えて眠ることが出来なかった。
 熱いのか寒いのかわからないし布団がやけに重くて何度も蹴っ飛ばす。何度も寝返りを打つ。右へ左へ。窓側を向いた。何回目だろうか。雲ひとつない夜空には星も月もなにもなかった。宇宙がそのまま見えるようだった。無音は、ボクを孤独にさせた。自分が立てる布を擦(す)る音、呼吸、心音だけが耳に入ってくる。だけどそれは無音と同義(どうぎ)だった。ボクだけを存在させる音でしかなかった。孤独は絶望を生み、接触を渇望(かつぼう)させる。無性に誰かと会いたくなり、時刻を確認すると午前一時。もう誰も起きてやしない。その諦(あきら)めがさらにボクを闇の中に突き落とす。
 叫ぼうかと思った。泣こうかと思った。
 そのときふと、サヨリの顔が脳裏をよぎった。その顔を振り払うようにまた身体の向きを変える。同じ闇が広がっているけど、窓の外のような開放感がない。ボクを体内に引きずり込もうと、闇が迫ってくるようだった。呼吸が困難になってきたのでまたまた身体を回転させた。
 窓が開いている。
 人型のシルエットが、浮かんでいる。
 シルエットは窓枠を乗り越えている。
 右手に、何かを握っている。
 忘れるはずのないその、形。
 叫ぼうとした瞬間、口を力強い手でふさがれた。そのまま引っ張られ窓から落ちる。
 カヅン! ハイヒールがコンクリートに突き立つ。
 ボクを助けるつもりはないようだ。すごい勢いで地面が迫る。二階から無防備のままコンクリートの地面に激突――かと思いきや、鏡女はすぐに走り出した。そのためボクの身体は大きく弧を描き、落下の衝撃は減った。転落死はまぬがれたものの、永遠ともいえる苦しみが襲ってきた。ボクは部屋で横になっていた、つまり裸足(はだし)なのだ。カンナのような、ピーラーのような、鉛筆削りのような、凶器と化した路面。ガリガリと削られるボクの両足と両手。助けを呼びたくても口を押さえられているので無理。だけど、とボクは痛みに耐えながら思う。もしも助けを呼べる状況であったとしても、ボクは静かにしていただろう。
 鏡女の顔を見上げる。大きな眼と大きな口以外には特徴的なところはない。体型も普通。ただ後ろ向きで行動するだけ。他には? 赤いハイヒールなんてどこにでも売っている。何かあるはずだ。見つけろ! 見逃すな!
あった。
 抵抗しなかったボクはいきなり暴れた。鏡女はあきらかに油断していた。だから簡単に手がはずれた。ボクはすぐさま起き上がった。両手も両足も血にまみれている。だけど幸いなことに、恐怖が勝(まさ)っていて激痛は引いている。だから走れる。全力で走る。ここはどこだ? 町はずれの商店街だ。もちろん人ッ子ひとりいない。暗い路地を走る。鏡女が追ってきていることは音でわかる。だけど振り向いている余裕なんてない。ボクには行かなくてはならない場所がある。そこまではどれくらいだろう。かなりある。間違いなく途中で捕獲(ほかく)される。すぐ隣には公園。ボクは右折する。そのまま公衆トイレに駆け込み個室に入り施錠(せじょう)する。呼吸音が壁に反射して前後左右から響いてくる。やがてコッゴンコッゴン、コッコッコッコ………ドアの前で音が止まった。息を殺す。耳を澄ます。気配はない。居るのかと不安になってくる。それでもボクはまだ動かない。しばらくして恐る恐る見上げる。大丈夫、上から覗いてはいない。居ない。便座に全体重を預ける。弛緩(しかん)して、顔を下げたときに気づいた。扉の下に開いている隙間から、もう見なれた、手鏡が飛び出していたのだ。鏡に映る鏡女の眼。ビグッと痙攣(けいれん)し、叫んで助けを呼ぼうと思ったが、ボクは思い直して冷静さを取り戻した。
 鏡女に向って言う。
「あなたの目的はなんなのですか?」無言。「どうしてボクを連れて行こうとしたのですか?」無言。「あなたの名前はなんですか?」無言。「あなたの正体はなんなのですか?」無言。「もしかして、あなたは寂しいだけなのですか? だったら、友達になりましょう。それからあなたの悩みを訊いて、すべてを解決させましょう。それくらいなら、ボクにでも出来ると思いますから」無言。「画家だったのですか? それとも目指していた?」
 無言。
「ボクにも問題があるので、心配しないで、警戒しないで」
 手鏡が消えた。それから、コッコッコッコ……と音が遠ざかって行った。
 個室のドアを開ける。誰も居ない。ボクはトイレの外へ出る。無人の公園はしかし、小さな音を立てて子供たちを待っている。だけどそれはボクではない。むしろボクを排除(はいじょ)しようと威圧的だった。
「待って鏡女! まだ終わっちゃいない。実は、君に用があるんだ!」
 虚空(こくう)に向かって叫ぶ。
「お願いだ! 戻ってきてくれ!」
 そのときボクは鏡女がどこへも行かず、虎視(こし)淡々(たんたん)とボクのことを狙っていたことを知らなかった。鏡女はトイレの屋根に上(のぼ)っていて、ボクの背後に向かって跳躍したのだ。
 地面に崩れるボクと鏡女。ちょっと待って話を訊いて、というボクの哀願(あいがん)もむなしく、鏡女はボクの顔を殴りつける。鏡女は後ろに向かってこぶしを振るうのにしっかりと腰が乗っていて痛い。倒れたボクの上に覆(おお)いかぶさり、好きなように殴っている。やりたい放題(ほうだい)だ。ボクは懸命に腕を伸ばす。そして、彼女の左腕をつかんだ。
 そう、鏡女の弱点はつねに手鏡を持っているので片腕しか自由じゃないということ。
 だからボクは手鏡を奪うことに成功した。
 突然、腕をばたつかせる鏡女。それはまるで、眼が見えないかのような動きだった。
 ボクはゆっくり腰を上げる、けれど、鏡女はおかまいなしに地面をかきむしり始める。それはまるで、獣が爪を研(と)ぐような無気味な動きだった。
 手にした手鏡を見る。普通の鏡で青あざを作ったボクの顔が普通に映っている。どこにでもありそうな手鏡。だけど、とボクは決意を込めて、走りだした。
 鏡女はまだ地面をまさぐっている。ボクが駆けだしたことに気づいたのか、

 チマアアアアアァァァァン

 と奇妙な声で泣いた。いや、鳴いた、と表現したほうが正しいのかも知れない。
 遠ざかる鏡女の鳴き声。ボクは手鏡を決して落とさないように、しっかりと握りしめて目的地を目指した。

 ある森で、ボクは手鏡を木々の隙間に隠して、Uターンして帰路についた。

 朝方に家へ到着し、とりあえず寝る。
 学校の時間に母親が起こしに来たのだろうが気づかずに、眼が覚めたときはもう夕方だった。下へ降りると母親が夕食の準備をしていた。三人分のカレーライスだった。くたびれたような母親が、さあ食べて、と言う。だけどボクはスプーンを置いた。

 部屋へ入るとすぐに妹のサヨリがやって来た。
「ねえ、お兄ちゃん、鏡女の新しい情報を手に入れた?」「情報と言うか、会ったよ」「え? 本当! ねえねえどんなだった?」「どんなかと聞かれたら普通だったと答えるしかない」「なにそれ、はっきりしない答えね」「仕方ないだろ、本当に特徴(とくちょう)なんてなかったんだから」「まあいいわ。でもこれでひとつだけ証明されたね、鏡女に狙われたらかならず連れていかれるという噂は間違っていたって」「…………」「お兄ちゃんが初めてよ。でもなんで鏡女にそんなに執着するわけ? 今日こそはその理由を教えてよ。今のお兄ちゃん、ちょっと怖いくらいよ」

「怖いのはこっちだ! 山へふたりで遊びに行ったとき、足をすべらせて岩に頭を打ち付けて脳髄(のうずい)をまき散らして川に流されて、お前は……お前はあのとき死んだんだ! ボクは一部始終を見ていた。確実に死を迎えていた。なのになんでボクの前に現れるんだよ! 山に誘ったのはボクだよ。ちょっといじめたのもボクだ。でも、足をすべらせたのはお前のミスじゃないか。ここに居ちゃいけない。お前は山で鏡女にさらわれたんだ。そう、山には鏡女の手鏡がある。ボクは見た。眼が大きくて口も大きくて後ろ向きで動く鏡女を見た。鏡女がお前を連れて行った。どこかへ行ってしまえ! サヨリ、お前は死んだんだ」


 三人分の料理。ひとつは手つかず。薄暗い食卓。無言の食事。消え入りそうな母親。奇麗に平らげたふたつの皿。ひとつは手つかず。

 ボクはドアを叩くノックの音を無視して布団を頭からかぶった。やがてノックの音も消えた。
 とても寝苦しい夜だった。何度も何度も寝返りを打ち、ふと、窓を見上げたときだった。
 右手に赤い手鏡を持った女のシルエットが浮かんでいた。
 彼女は不思議なことに、後ろ向きだった…………。

 そのときボクの脳裏に浮かんだ言葉。
「鏡女に狙われた人は、ぜったいに、逃げられないんだって」


                                     了  


Posted by BBあんり at 21:04Comments(0)鏡女 (短編)

2013年01月24日

ちょっとブレイクタイム

投稿小説は全文改稿いたしております。前の作品をおぼえている方は、どうか成長のほどをお楽しみください。  

Posted by BBあんり at 23:05Comments(0)

2013年01月24日

歯 完結編

     歯 完結編

 宛先:立樹早苗代(たちのぎさなよ)
 件名:悟っちゃったかも

 両親の手紙を発見して、とってもびっくり。弟にも教えようと思ったんだけど、あいつったら、部屋からまったく出てこないのよ。ガチガチ、ガチガチと音がするから部屋にいるのはわかってるんだけど、返事もしないし、ワタシだけじゃ心細いから早苗代にメールしたの。ああもう、ガチガチガチガチうるさい。実は、お母さんと同じようにワタシたちも産まれたときからすでに歯が生えていたらしいの。思うに、一族の業(ごう)が、引き継がれているのかもしれない。歯の存在意義……小さいころからずっとそのことに捕らわれていたのだけど、やっと、何故、そのような無意味とも取れることに執着(しゅうちゃく)していたのか、わかったわ。成長を助けるのは栄養を吸収しやすいように細かくしてくれる歯。防御にも使われたりして守ってくれる歯。歯の起源(きげん)は、魚の先祖の皮膚が変化したもの。形を変え質と用途を変え今に至る。エナメル質に覆われた歯にこうも翻弄(ほんろう)されている人間って、きっとワタシたち姉弟だけじゃないかしら。生後六か月ごろから生え始める乳歯なのに、産まれたときから永久歯を持っていたワタシと弟。この連鎖を止めるにはどうすればいいのか、それをワタシは考えているの。もしもワタシが子供をもうけたら、その子もまた歯が生えているのかしら。ま、わからないけどね。こうやってワタシは何事もなく二十二の歳を迎えたわけだけど、それはたまたま運がよかっただけかもしれない。弟はどうか知らないけれど、少なくとも人生を左右させる事件には遭遇していない。だから悲観するほどじゃない。歯の呪に憑かれているとは言っても、早急に対策を練らなくても大丈夫。だけど、と同時にワタシは思うの。これから先は、何が起こるかわからない。だから手をこまねいて見ているだけじゃダメ。策を講(こう)じなければならない。そのために《歯》の本質を見抜かなければならない。銃は相手を撃つためだけの、破壊するだけの存在。ハサミや包丁やのこぎりは相手を切り刻むための存在。ハンマーは相手を砕くための存在。じゃあ、《歯》の存在理由は何かしら。人間が物を食べやすくなるために切り刻み細かくしすりつぶす。本当にそれだけかしら。もうひとつあったわね、歯を食いしばり、痛みを和らげてくれる。でもそれだけかしら。それらはただの形式でしかないと思う。あ。ひとつ思い出した。さっきワタシが書いた文章、そうそう、『歯に翻弄されている人間』……何気なく使った言葉なんだけど、これって実は本質をとらえていないかしら。お父さんの手紙にもあったわ。歯の欲望、願望、渇望……それってなに? そこで考えたの。食欲を満たしたいという伝達は脳が行う。じゃあ、脳はその情報を何所から得たのかしら。それはエネルギーを吸収したいという胃や肉体と、それと、それと――《歯》からだと思う。噛み切るために産まれてきた歯。噛みちぎるために産まれてきた歯。噛みつぶすかめに産まれてきた歯。歯は自分の存在理由のために脳へと信号を送る。何か食べ物がほしい、と。一般的に人々は肉体や内臓の欲求のために動く。だけどワタシたち一族は、歯の欲求が強く現れるのかもしれない。肉体や内臓の渇望(かつぼう)よりも歯の願望を強く感じる。それは脳髄をも超越している。理性を破壊し、歯の言いなりになってしまう。それがワタシたちの性(さが)。ああもうガチガチうるさい。歯を全部抜いちゃおうかしら。まあそれは冗談なんだけど。それでも、その帰結を意識することによって抑制できると、ワタシは思う。お父さんもお母さんも歯を意識しながらその本質に眼を向けなかったから悲劇を迎えた、とワタシは思う。この考えを、今もガチガチと音を立てている弟に伝えなければ。負けないように忠告しなければ。手遅れになる前に。長々とゴメンね。またメールするから。

 宛先:立樹早苗代
 件名:ゴメンね

 連絡出来なくてゴメンね。弟が発狂して歯を一本残らずペンチで抜いて身を投げて死んで、今になってやっと落ち着いてきた。落ち着いたと云っても、平常に戻ったわけではないのだけど、メール出来るくらいには回復した。弟は弟なりに、自分の身の上に起こっている不可思議な謎が気になっていたのね。どんな悲劇が彼の身に降りかかっていたのか、ワタシにはもう知る術はない。おそらく、ワタシが打ち明けた『因果』に耐えきれず、死を選んだ、のかもしれない。それほど弟が追い込まれていたなんて、気づいてやれなかったワタシのミス。唯一の肉親、血をわけた姉弟なのに、本当に情けないわ。あまりにも情けなくて、ワタシはご飯が喉を通らなくなっているの。歯は食べ物を欲している。その願いを脳に送っている。歯の従僕である脳髄はワタシの自我に訴えている。早くご飯を食べなさい、と。ワタシは従うのが怖い。そこで折れると、取り返しがつかない気がするの。おそらく弟も同じ悩みを抱えていたんじゃないかしら。だから歯を破壊した。きっとそう。何故なら、ワタシも自分の歯を壊してしまいたい衝動と闘っているのだから。それにしても、恐ろしいことがあるの。とても、恐ろしいことが。ゴメンね、こんなネガティブで。久しぶりのメールだから疲れちゃった。なんか謝ってばっかり、ゴメンね。また連絡する。

 宛先:立樹早苗代
 件名:止まらないの

 もう一か月以上、飲み物でしか栄養を摂取していない。だって、噛み砕く、噛み切る、すりつぶす、という行為がどうしても出来ないのだから。この誘惑、きっと他の人には理解できない。《歯》の欲。細胞の隅々、それから心まで、歯が欲していることを欲している。ああ、気が狂いそう。でも負けないからね。呪いを解く方法を見つけ出すから。病院かな、それとも霊能者? まあいいわ。明日から行動を起こすから。良い結果を期待しててね。でもとりあえず、今夜を乗り越えなくちゃ。ただでさえまいっているのに、これ以上ワタシを苦しめないで。どうしてこんな仕打ちをするの! ガチガチ、ガチガチ。うるさい。

 弟が隣の部屋でガチガチガチガチガチガチうるさいのよ!

 宛先:立樹早苗代
 件名:全部ワタシの思い込み

 昨日は取り乱してしまってゴメンね。弟が死んで、初めて彼の部屋に入ったんだけど、何もなかった。誰もいなかった。日記や手紙、メールの類を探したんだけど、弟は記録を残していなかった。それから、ガチガチの正体もわかった。とっても単純で簡単でバカみたい。笑うしかないわね。そこで問題です。ガチガチは何所から聞こえていたでしょうか。ヒントは《姉弟》。答えはまた次回。というのはウソ。実はね、ワタシが発していた音だったの。ワタシの歯が物欲しそうにガチガチガチガチしていたの。それからね、歯って、ひとつじゃないよね。十本以上あるよね。だからどういうことが起こったと思う?《歯》は、隣にいる《歯》、下や上にいる《歯》を攻撃していた。ワタシが何も口にしないからこういうことになったのね。ガチガチガチガチうるさいのよ。鼓膜はガチガチがこだましている。ガチガチしか見えない。ガチガチしか感じない。耐えられなくなったからワタシ、どうしたと思う? 弟と同じよ。なにからなにまで弟と同じ行動を取ったの。《歯》を全部、ペンチでつかみ、ひねり、引っ張り、一本残らず、抜いたの。その後も《同じ行動を取った》。永久歯だからもう生えてこないわ。もう安心。もう安全。心配ないと思っていたのだけどけっきょく一族の呪からは逃れられなかったの何故なら歯はまた生えて来たのよそれも普通じゃなくて強固になって生えて来てしかもとがっているのハハハ。ワタシはモノを摂取しなかったわよね。《歯》は、だからなの、だから、とがって生えてきたの。その目的は、『突き刺す』ということ。歯は新しい道を作った。突き刺すということは文字通り物質を突き刺すの。ワタシが嫌いな噛み切ったり噛みちぎったり噛み砕いたりしなくていいの。突き刺すの。
 針のようにとがった歯は、二本。

 ねえ早苗代ちゃん、今からそっちに行っていい?
 愚痴(ぐち)はさんざん聞いてもらったから、暗い話はおしまい。楽しい会話をしましょう?
 ワタシたち家族の呪は断ち切られたから安心して。
 もう大丈夫よ。よかったよかった。

 差出人:立樹早苗代
 Re:今日はもう遅いから今度にしましょう

 そんなこと言わないで、この新しい歯は本当に奇麗なんだから。早苗代ちゃんもきっと気に入るわ。最初に見せたいのは早苗代ちゃんなの。中学からの付き合いだものね。だから、ね。見てちょうだい。
 断っても無駄よ。
 だってもう、窓の外に、来ているから。




                                     歯 了
  


Posted by BBあんり at 23:00Comments(0)歯 完結編 (短編)

2013年01月24日

歯 後編

   歯  後編

 彼女がボク宛てに書いた手紙には、恐ろしい秘密が隠されていた。
 それを読んで、ボクの手は震えたが、それは、彼女の秘密を知ってのことではない。もっと恐ろしい、イビツな未来を予想して、震えたのだ。
『因果(いんが)』という呪いにとりつかれているのは、彼女だけではないのだ。どうしてもそれを伝えなくてはならない。

 薄暗い病院の待合室で、こうして彼女への返事を書いている。
手紙とは不思議なもので、恥ずかしいことや秘密にしていたこと、知られたくない過去を伝えるとき、言葉よりも、楽に、してくれる。
 それから、書くと同時に、ボクは懺悔(ざんげ)をしているのかもしれない。罪を償っているのかもしれない。
 そして、奇跡を、願っている。

     ○
 君の手紙を読んで、ボクは勇気をもらいました。秘密を告白する苦しみ、決意を、ひしひしと感じました。それに、甘えている訳にはいきません。だから告白します。ボクにも秘密があるのです。
 遅くなってしまって申し訳ありません。言わなければ、とずっと悩んでいたのですが、君に嫌われるのが恐ろしかったのです。だけど、君が闘っている今だからこそ、告白する勇気を持てたのです。
 もう過去のことなので、どうか、嫌いにならないでください。

 ボクは七歳のとき、初めて自分の意志で、殺意を持って生き物を殺しました。
 夏の日の午後、公園の木の上で、必死に鳴いているセミを見つけました。ボクはこのとき暑さでいらいらしていて、遊ぶために持ってきていた爆竹に視線を移しました。
 一陣の風が、吹き、ボクの頬を撫でました。
今思えば、この風がボクを急(せ)き立てたように感じられます。何か、得体のしれない、意志を持って。
 ボクはおもむろにセミを捕まえ、腹部に爆竹をつっこみ、火をつけて放り投げました。セミは一生懸命、飛んで、行きました。バタバタと、必死に羽を、はばたかせて。本能で、自分の身に降りかかっている災難を悟っていたのでしょうか。ボクにはわかりません。
 セミの後をついていく火花。数秒後、セミは大きな音とともに破裂して死んでしまいました。
 それからです。弱者を淘汰(とうた)する鬼妙(きみょう)な恍惚感、眼の前で命の灯火を消すときの快感、生存本能を刺激する勝利感、そういった感情が、心の中を渦まいたのは、それからなのです。
 虐殺(ぎゃくさつ)という甘美な経験は、幼いボクに、麻薬のような高揚感(こうようかん)を与えました。
 次の獲物は決まっていました。近所の林に出没(しゅつぼつ)する木登りトカゲ。これまでに何度も噛まれていて、いつか仕返しをしてやろうと考えていたのです。
 セミを殺して一週間後、熱風の吹き荒れる中、大粒の汗を額に浮かべながらボクはトカゲ狩りに林へと出かけました。
 目的の生贄(いけにえ)はすぐに見つかり、躊躇(ちゅうちょ)することなく捕まえました。噛まれることを想定して手袋をしていたので、指に噛みついたトカゲを見て、思わず口はしがつり上がりましたのを今でも鮮明に覚えています。
 トカゲの特性を利用して、ボクは爆竹を噛みつかせました。それから先はいうまでもありません。

 それからというもの、少しでもイライラしたり、不愉快な想い、悲しい想いをしたりすると
そのウップンを晴らすかのように、昆虫や小動物を始末していきました。もうやめよう、とは少しも考えませんでした。むしろその逆です。

 この忌み嫌われるべき所業は、良くなるどころか、ますます増長(ぞうちょう)され、そのまま中学をむかえました。こんな子供がどれほど醜く、どれほど怪奇な心持ちで育ったのか。
 中学になり、悪癖(あくへき)はエスカレートして行きました。今まで昆虫や爬虫類にとどまっていた殺戮が、ネコやイヌといった、とてもかわいらしい小動物に移行したのです。
 ああ……この虐殺を、いくら手紙とはいえ、公表するのをためらってしまいます。思い出すだけでも自分自身を嫌悪してしまいます。
 今でこそ、常識的な思考でもって考えられるのですが、当時は違いました。
 腹部からあふれ出す臓物、うっとりするほど美しい血液、とろける脳髄、何とも形容しがたい悩ましい香り、それらが一体となり、ボクの心を麻痺させたのです。
 今でも両手に、あの、ときの、感触、がぬくもりを持って残っているのです。
 悲劇は、この罪が、誰にも発覚されなかったことなのです。
 何故、ボクの異変に気づき、止めてくれなかったのでしょうか。快楽に身を投じる異様な中学生を変だと思わなかったのでしょうか。母子家庭だったので母親は忙しくしていました。学校の担任は三十人という大勢を相手にしているので、個人に眼を向けることが出来ませんでした。それでも、何処かで止めてくださいというシグナルを、誰も気づかないなんて、この業(ごう)の責任は誰にあるのでしょうか。

 そうして、罪悪(ざいあく)は、さらに過激に、ある意味崇高(すうこう)ともいえる、完全犯罪へと発展してしまったのです。
 高校に入学したボクには、必然とも云える帰結の場が待っていました。
 
 女性と初めて交際し、彼女を心から愛しました。痒(かゆ)いところに手が届くというか、ボクが欲しているのを先に気づくというか、とにかく、とても優しくて、気の利く女性でした。
 彼女といる時間は、とても幸福でした。
 こんなボクが幸せになってもよろしいのでしょうか。
 彼女と付き合っているとき、不思議と殺戮の衝動はなりを潜めました。このまま癖がなくなり、平常の暮らし、一般市民がいう常識を手に入れられるかもしれない、と安堵したものです。
 ところがどうして、高校もあと数ヶ月で卒業というとき、ついに悪癖が爆発してしまったのです。そのきっかけというのが、ある日、野良犬がねずみを噛み殺すところを目撃してしまったからなのです。
 ふつふつと湧き上がる地獄からの興奮、誘い、誘惑。再び姿を現した至福。そのときの感情を、いったい誰がわかってくれるでしょう。どうすれば理解できましょう。

 ある暑い夏の日でした。彼女とちょっとした口論があり、ボクの心の中に、じわじわと地獄からの誘いが沸いてきました。
 ああ……もうお分かりですね。そうです、そうです、ボクは取り返しのつかない領域へと足を踏み入れてしまったのです。二度と戻ることのできない領域へ。
 
 そのときの状況を、いくら手紙とはいえ、鮮明に語ることは出来ません。

 死体が出なければ事件にはなりにくい。ボクはその言葉を何処かで聞いたことがあり、それを利用し、証拠を隠蔽(いんぺい)しました。

 ボクは彼女を食らったのです。
 かけらをも残さずむさぼり食ったのです。

 凶器である包丁と血痕のついた絨毯(じゅうたん)は、学校にある焼却炉へ投じ、食べることの出来なかった骨は、コナゴナにして海の砂浜へとばら撒きました。
 こうして、彼女は失踪という形になり、完全犯罪が成立したのです。

 しかし、ボクの心は後悔の念に襲われました。セミやトカゲ、イヌやネコ、牛やヤギを殺すのとは訳が違いました。なぜなら、ボクは彼女を、心から愛していたからです。
 一時的な快楽に身を投じ、かげがえのない命をこの手で刈り取ってしまった。このやるせなさ、切なさ、くやしさ。後悔しても後悔しきれません。

 それからというもの、ボクの悪癖は鳴りをひそめました。彼女の犠牲によってボクの病は完治したのです。

 これがボクの秘密なのです。
 彼女の死から一変し、ボクは一度も、たったの一度も、非道なる行為を行いませんでした。
 法による裁きは受けていません。それでもいろいろな形で罪は償ってきたつもりです。
 こんなボクが幸せになってもいいのでしょうか。
 これからは自分の命に代えて、あなたを幸せにします。
 そして、無事に、二つの命を誕生させてください。

     ○

 突然、分娩室の扉が勢いよく開けられ、中から蒼白となった女性の看護師が転がり出てきた。
 ボクは手紙を隠し、異常極まりない出来事に不安を抱きながら、看護師の元へと駆け寄った。
 どうしたのですか、と聞いても、彼女は言葉にならない言葉を発しながら、分娩室の扉を指差すだけだった。
 不安をおさえ、ボクはゆっくりと腰を上げた。不安がよぎる。妻の身に、子供の身に、何かあったのだろうか。しかし、ここでしり込みしている訳にはいかない。この眼で、しっかりと結果を見届けなければならない。
 重くなった脚を、必死に前へ出す。
 扉までわずかな距離なのに、はるか彼方のように感じる。
 脇の下に、汗がにじむ。
《罰》という文字が、頭に浮かぶ。
 扉へたどり着いた。ドアノブを握りしめ、呼吸を整え、開ける。
 赤ん坊の泣き声がふたつきこえる。
 震える医師が見える。
 数人の看護師が失神している。
 分娩台が朱(しゅ)に染まっている。
 ボクは思考が麻痺したまま、中へと足を踏み入れた。

 双子の赤ん坊は、無事に産まれていた。
 ボクはそっと腕を伸ばし、我が子らを抱きしめようとした。
 双子の赤ん坊たちはボクに抱かれたいのか、父親に会えてうれしいのか、にやりとして見せた。なんてかわいらしいのだろう。ありがとう。これ以上の幸せはない。


 妻の腹を食い破って産まれてきた赤ん坊たちを抱きしめ、ボクは天を仰ぎ、感謝した。


 人を一度でも殺したら、狂ってしまう。戦争体験者の言葉。

 だからボクは、このとき、笑顔だったのかもしれない。

                                                     完結編へつづく  


Posted by BBあんり at 22:41Comments(0)歯 後編 (短編)

2013年01月24日

     前編

 あなた様からプロポーズを受けたときは、本当に……本当にうれしく思いました。
 そのお返事を手紙で返すことをどうかオユルシ下さい。メールではなく、電話ではなく、どうしてもお手紙でなくてはいけないと思い、こうやって、心を込めて書いております。昭和のような文体で、字がきたなくて、大変読みにくいかもしれませんが、どうかオユルシ下さい。
 プロポーズされたとき、すぐにお返事をしなかったのは他でもありません。
 私の……秘密についてお話ししなければならないからです。
 誰にももらしたことのないコノ秘密を訊き、それでも私を好いていられるのなら、もういちど告白して下さい。そのときには、迷うことなく首を縦に振るでしょう。
 私の秘密を話す前に、どうしても知っていてほしいことがあり、まずはそのことからお話しいたします。
 それは母親のことでございます。
 母の秘密は、私がまだ七歳のときに、そっと、話して訊かせました。それはそれは、子守唄のように優しく云って訊かせました。誰にも云ってはならないとのことでしたが、初めてこうやって母を裏切ります。
 母は四十を過ぎても二十代のような肌のツヤと美貌ですが、幼少のころより『この子は将来エライべっぴんになるぞ』やら、『百年にひとりの逸材じゃ』などと、云われていたそうです……実際、美しい女性に育ったのですが……。
 学校の成績もよく、人当たりもよく、みんなに好かれていました。才色兼備とは母のためににある言葉だと周囲は噂していたようですが、タッタひとつ、まわりには理解できない奇妙な……そして、気持ちの悪い……癖がありました。
 母の癖というのは、一歳くらいから始まりました。母は他の子よりも早く歯が生えてきたので、一歳を過ぎた直後くらいから普通の食事をとるようになったそうです。それがいけなかったのかもしれません。
 母が生まれて初めて……食べなさいと催促されたのではなく、自分の意思で、食べたモノは…………ゴキブリでした。
 床を這いずり回る物体。何にでも興味を示す年頃。モノを噛むために生えてきた歯。ゴキブリを口に入れるのは、必然的帰結だったのかもしれません。
 母が云うには、とても……トテモ……おいしかったそうです。
 クリームのような甘みが噛み砕いた甲殻(こうかく)の中から、こうジワ~ッと、それこそ歯と歯の間に汁がからみつくように…………すみません……この辺は省略させていただきます。
 今でもまぶたに浮かびます……そのときの母のうっとりとした表情。なんと神々(こうごう)しく、なんと美麗なお顔でしたでしょう。女の私ですら見とれてしまいました。
 それからだそうです。普通の食事をしても何か物足りない。どんなに素敵なステーキ、ハンバーグ、パスタ、カレーライス、肉じゃが、卵かけゴハン、とイロイロ食べましても満足できない。すっきりしない。原因がわからない……しばらくは、霧のかかったまま過ごしていたそうです。
 それからある日のこと、決定的な出来事があったのです。保育園に通っていた母は庭でクモと出会いました。蠢く八本の足から眼が離せなかったそうです。太陽の光を吸収して黒光りする大きな大きなクモ、ふと気づくと右手がクモに伸びていて、何の躊躇(ちゅうちょ)もなしに口の中へ運んでいたそうです。
 クチュッという食感……全身にシミワタル肉汁……ミルクのような香り……そしてなにより、チョコレートのような甘み……。母は、今まで探していたものはコレだと思ったそうです。
 ここでひとつ誤解を解いておかないといけませんね。私の癖、私の秘密というのは昆虫を食べるということではないので心配しないで下さい。安心して下さい……いや、私の秘密はそれ以上におぞましいことですが…………話を戻します。
 母は何度となく昆虫を捕まえては食べたそうです。その行為はダンダンとエスカレートしていき、ついには保母さんにバレてしまいました。
 親も呼ばれ、こっぴどく叱られ、それで癖が直ったかというと、さらに過激さを増したそうです。しかし、大々的にではなく、こっそりと悪食(あくじき)を続けたと云いました。
 母が好んで食したのは、芋虫やミミズのようなやわらかいモノではなく、カブトムシやセミといった甲殻類でした。硬ければ硬いほどなお美味。外骨格を噛み砕いたときの優越感、壁を突破したときの達成感、骨と臓物のコントラスト、生暖かい体液が身体中にシミワタル快感、満足感……。バレてはいけないというスリルもまた、悪食に拍車をかけたのかもしれません。
 母は一歳を過ぎたくらいから始めたと先に述(の)べましたが、そのことによって、他人とは異なる体質になったそうです。なんだかわかります? 
 それは歯が大変丈夫になった……ということです。
 前歯は本来の目的をさらに遂行するために鋭くなり、奥歯もまた鋼のように硬くなりました。すべてを切り裂く前歯とすべてを砕く奥歯を手に入れたのです。
 話しが変わりますが…………昆虫にも魂はあるのでしょうか?
 意思はあるのでしょうか?
 他(た)を意識する心はあるのでしょうか?
 どうか……ドウカ……あると云ってください…………。
 なぜならば、このコトが私の秘密に大きくかかわっているからなのです。
 私の秘密を早く知りたいのは百も承知ですが、もう少し待ってください。どうか……どうか……焦らないでください……お願いします……。
 母の乳歯が生え変わってからどうなったのか……私は気になったものですからたずねました。
「普通の歯が生えてきたのよ。でもね、それからも虫を食べ続けたら、また美しい歯になってきたの。虫歯なんてなったことないわ。真っ白くて硬くて綺麗な歯よ。オホオホオホ」
 確かに母の云うように綺麗な歯でした。容姿端麗で、とてもトテモ自慢の母親です。
 私も虫を食べれば綺麗になれるかしら……などと脳裏をよぎったこともあります。
 アア……私の場合は癖なんてモノではないのです。たった一度きりの過ちなのです。それなのに……何故こうも罪悪感が脳髄を支配しているのでしょうか……。
 私の秘密が母と唯一イッチしていることは、『食べる』ということです。先ほども云いましたが、昆虫なんて食べませんよ。もちろん、あなた様と何度も食事に行き、わかっているとは思いますが大食らいでも極端な偏食(へんしょく)でもありません。じゃあ、何なんだ。という心の声がきこえてきますが、秘密を明かす前に、コンナ話しをきいたことがありますでしょうか…………。
 離聴児が生まれたり、巨舌症や食道閉鎖、巨大結腸症といった奇形の子が、四パーセントの確立で生まれているということを……。遺伝、薬物、ウイルスといろいろな原因がありますが、実は私も奇形児として生まれたのです…………。
 でも、私は五体満足で、どこにも異常はなく生まれました。三千グラムで無事に生まれました。ただひとつ他と違っていたのは……歯が生えていたことです。
 生まれる前から……歯が生えていたのです。
 アア……手が震えてしまいます。この手紙が読めなくならないように、左手で右手を押さえながら書いています。
 秘密を明かすことによってあなた様に嫌われてしまわないかと心配で心配で胸がツブレてしまいそうです。ここでヤメテあなた様のプロポーズを受けてしまおうかと思っているところです。でも、あなた様のコトが本当に好きで好きで隠し事をしておきたくないのです。私のすべてをサラケだして、すべてを愛してほしいのです。
 過去にタッタいちどだけ、当時つきあっていた彼に私の秘密を打ち明けようとしました。まだ若かった私はどうしようかと母に相談しました。その結果、秘密は秘密として心の中にしまっておくことにしたのですが、それがいけなかったようです。機微(きび)な変化がシコリとなり、彼とは長く続きませんでした。だから、あなた様にはつつみ隠さずお話ししようと思った次第なのです。
 今でも不思議に思うのですが、私と結婚しようと決意した理由は何なのでしょう……。美しくもなくおっちょこちょいな私の何処を好いたのでしょう。同時にふたつのことを出来ない不器用な私の何処に引かれたのでしょう。何もないところでつまずく私の何処を愛したのでしょう。
 小さいころは期待もされたものです。「母親の遺伝できっと美人に育つぞ」やら「父親もスマートなので母親以上に綺麗になるでしょうね」などと……。
 たまに綺麗だね、などと云われるのですが、母を見ている私から云わせるとそんなことはありません。
 父親は私が生まれてすぐ離婚して出ていきましたが、物心つく前ですので、悲しいといった気持ちはありません。
 私は女手ひとつで大事に大事に育てられました。決して裕福ではなかったのですけれども、人並みの生活を送りました。母親の愛に包まれ、欲しいものもたまにですけど買ってもらい、病気にかかったときなどは本気で心配され、とてもトテモ幸せでした。
 でも…………そんな生活に私は不満を持っていたのです。
 そんなことを云ったら罰があたるのはわかっているのですが、どうすることも出来ないのです。
 いつも……葛藤していました。
 映画館、デパート、公園、プール……と、あちらこちら出かけるとイツモ苦しみました。
 私の秘密はなんと醜くイビツなのでしょう。母の業(ごう)を受け継いだとしかいいようがありません。これは、呪いなのです。
 アア……どうか驚かないでください。
 長くなってしまいましたが、私の秘密を告白します。
 私は一人っ子……ご存知のはずですが……実は双子の姉がいたのです。
 そう……『いた』、という過去形なのです。
 私にかけられた呪いとは、母親が食べることにとりつかれているように、私にもそれが受け継がれているのです。先ほども述べましたね、私は生まれる前から歯が生えていたということを……………………。

 母が出産すると、生まれてきたのは双子ではありませんでした。

 アア……もうお気づきですね。そうです、ソウデス、私は……胎内にいるとき、隣にいた姉を食ったのです………………こりこり……じゅるじゅると……姉をむさぼり食ったのです。
 あり得ないことだそうです。口から栄養をとる必要のない胎児からは考えられない行動だそうです。
 アア、では何故、骨を噛み砕く歯が、肉を噛みちぎる犬歯が、胎児のときに生えてきたのでしょうか。何故、胎児のときに歯を必要としたのでしょうか。
 母の胎内にいるときの記憶は、一般的に三歳くらいまでは覚えているそうです。でも、私の場合は今でも鮮明に記憶しているのです。あのときのトロトロとした脳ミソ。ぷにゅぷにゅした目玉。くちゅくちゅと舌を噛み千切り、ずるずると腸を引きずり出しては噛み切っていたのです。そのときの快感が脳髄にコビリついているのです。

 どうですか……これが私の秘密です。
 父親は「こんなバケモノを娘と思えるか!」と云って、出て行きました。
 母親は悪気があって姉を食べたのではないといって私をゆるしてくれました。
 もちろん、姉を食べたいと意識していたわけではありません。誓って違います。
 人間を食べたのは、その一度きりですが…………。ああ……アア……。
 それと、もうひとつ、秘密があります。これはあなた様にも関係のあることです。
 私の中に、新たな生命が宿りました………………。
 私のことがまだ好きならば、もういちどプロポーズしてください。もしも、秘密を知ったことによって嫌いになったとしても、何もうらみません。出産費用を請求したりもしません。どうぞ、安心してください。ゆっくり頭を整理してください。
 
 それではお返事をお待ちしております。



 追伸――――――――――あなた様との子は…………………美味しいでしょうか?

                                       
                                                                 後編へつづく  


Posted by BBあんり at 22:34Comments(0)歯 (短編)

2013年01月24日

諸事情により

投稿をすべて削除いたしました。
これからは小説専門にしてアップしていきますので、どうぞご了承くださいませ。  

Posted by BBあんり at 22:26Comments(0)